会稽かいけい)” の例文
これは、曹娥そうがと申すものの碑文でございます。昔、和帝かていの朝、会稽かいけい上虞じょうぐというところに、曹旴そうくと申す一人の師巫かんなぎがおりました。
三国志:09 図南の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
会稽かいけいばんという姓の男があった。それはしょうの母がたのいとこであったが、強くて弓が上手であった。ある日万は邵の家へ来た。
五通 (新字新仮名) / 蒲 松齢(著)
やがて目ざす都へ往って、其処で家を借りて落着き、進士の試験を受けてみると、うまく及第して、会稽かいけいの令に任ぜられた。
虎媛 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
世説新語せせつしんご補』四に賀太傅呉郡の大守とりて初め門を出でず、呉中の諸強族これを軽んじ、すなわち府門に題していわく、会稽かいけいの鶏は啼く能わずと。
会稽かいけい句章こうしょうの民、張然ちょうぜんという男は都の夫役ぶやくされて、年を経るまで帰ることが出来なかった。留守は若い妻と一人のしもべばかりで、かれらはいつか密通した。
(四) 孔子年四十二の時、季桓子きこうしが土中から羊のようなものを掘り出し、孔子がそれを説き明かした。また会稽かいけいを攻略して骨を得た呉が、使いをもって孔子に説明を求めた。
孔子 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
北はちょうえんしんから、西は※岐ぶんきまで足を延ばした。商於しょうおて洛陽に至った。南は淮泗わいしから会稽かいけいに入り、時に魯中ろちゅうに家を持ったりした。斉や魯の間を往来した。梁宋には永く滞在した。
岷山の隠士 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
会稽かいけいはじをそそいだその声は、何時までも波の上に響いていた。
孫軍のうちから周瑜しゅうゆ程普ていふの二将が、いつのまにか後ろへまわって退路をふさぐ形をとったので、会稽かいけい城の兵は全軍にわたって乱れだした。
三国志:04 草莽の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それから九百余年の後、しん康煕こうき年間のことである。会稽かいけい徐藹じょあいという諸生が年二十五でという病いにかかった。腹中に凝り固まった物があって、甚だ痛むのである。
『後漢書』東夷列伝に、〈韓の東南大海中にあり云々、その地おおむね会稽かいけい東冶とうやの東にあり、朱崖儋耳たんじと相近く、故にその法俗多く同じ云々、土気温暖、冬夏菜茹さいじょを生じ牛馬虎豹羊じゃくなし〉。
会稽かいけいの方へ出かけて行った。
岷山の隠士 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
仲翔が放してやった籠の小禽が、大空へ飛んでいた頃、もう下界では、会稽かいけいの城と、潮のような寄手のあいだに、連日、激戦がくり返されていた。
三国志:04 草莽の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ひとまず会稽かいけい浙江省せっこうしょう・紹興)へ退いて、浙江省の諸雄をたのみ、策を立て直そうと、ひどく弱気になって、烏城うじょうを捨て、夜中にわかに逃げだしてしまった。
三国志:04 草莽の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
が、越王勾践こうせんは、会稽かいけいの一戦にやぶれて、呉王のとりこになり、呉城の土牢に入れられて、幾年かすぎていた。
私本太平記:05 世の辻の帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
殿お一人の身ならば、この実平が、たとい一月ふた月の間は、どのように致しても、きっとおかくまい申してみせる。——やがて、計を立て直して、会稽かいけいの恥をそそぐ日まで
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
彭城ほうじょう曼才まんさい会稽かいけい徳潤とくじゅん沛県はいけんの敬文、汝南じょなん徳枢とくすう、呉郡の休穆きゅうぼく、また公紀、烏亭うてい孔休こうきゅうなど。
三国志:07 赤壁の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
すなわち孫権を討虜将軍とうりょしょうぐん会稽かいけいの太守に封じ、また張紘ちょうこうには、会稽の都尉を与えて帰らせた。
三国志:06 孔明の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
かくて越が積年の“会稽かいけいはじ”をすすぎえたのは、ひとえに勾践こうせんもとに、ただひとりの范蠡はんれいがあったによる——と、漢土の史書は日本にまで彼の名とその忠節とをつたえていた。
私本太平記:05 世の辻の帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
誰かと見れば、会稽かいけい余姚よようの人虞翻ぐほんである。孫権は、莞爾かんじと見て
三国志:10 出師の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)