轡虫くつわむし)” の例文
旧字:轡蟲
その女が「いらっしゃい」と大声で云って、一寸こっちを見ただけで、轡虫くつわむしの鳴くような声で、話をし続けているのである。
青年 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
座敷がしんとして庭では轡虫くつわむしが鳴き出した。居間の時計がねむそうに十時をうったから一通り霊前を片付けて床に入った。
(新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
楢茸ならたけ湿地茸しめじだけも少しは立つ。秋はさながらの虫籠むしかごで、松虫鈴虫の好いはないが、轡虫くつわむしなどは喧しい程で、ともすれば家の中まで舞い込んでわめき立てる。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
座敷へ上っても、誰も出てくるものがないからはずみがない。廊下へ出て、のこのこ離れの方へ行ってみる。ふもとの家で方々に白木綿を織るのが轡虫くつわむしが鳴くように聞える。
千鳥 (新字新仮名) / 鈴木三重吉(著)
お幸は思はず独言ひとりごとをしました。其処には轡虫くつわむしが沢山いて居ました。前側は黒く続いた中村家の納屋で、あの向うが屋根より高く穂を上げたきびはたになつて居ます。
月夜 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
立ち尽すと私は初めて荒漠こうばくなあたりの光景に驚かされた、かすかな深夜の風が玉蜀黍とうもろこしの枯葉にそよいで、轡虫くつわむしの声が絶え絶えに、行く秋のあわれをこめて聞えて来る。
駅夫日記 (新字新仮名) / 白柳秀湖(著)
煙草をきぎむ音などというものは、専売局が出来た以後の人間には縁が遠くなった。夜なべか何かに煙草を刻んでいる家がある。その隣の方では轡虫くつわむしが鳴き立てている。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
「今のはかごの中でのうぐいすですが、今度は谷わたり」けきょ、けきょ、けきょ、ほうほけきょう! それから引き続いて松虫、鈴虫、轡虫くつわむしの声。また、からす、ひばり、うずら。
猫八 (新字新仮名) / 岩野泡鳴(著)
轡虫くつわむしだの、こほろぎだの、秋の先駆であるさまざまの虫が、或は草原で、或は彼の机の前で、或は彼のとこの下で鳴き初めた。楽しい田園の新秋の予感が、村人の心を浮き立たせた。
のちの月は明るかった。裏の林に野分の渡るのを聞きながら、庫裡の八畳の縁側に、和尚さんと酒を飲んだ。夜はもう寒かった。轡虫くつわむしの声もかれがれに、寒そうにコオロギが鳴いていた。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
人ひとり三日の月夜に行き消えてそのかのはた轡虫くつわむしのこゑ
雀の卵 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
中将は轡虫くつわむしのやうにサアベルをがちやがちや言はせた。
「糊売り婆アは、轡虫くつわむしみたいにお饒舌しゃべりですよ」
ところへ一匹の轡虫くつわむしが飛び込んで来ました。
がちゃがちゃ (新字新仮名) / 夢野久作香倶土三鳥(著)
轡虫くつわむしが、いい音できぬく。
篝火の女 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
松の月暗し/\と轡虫くつわむし
五百五十句 (新字旧仮名) / 高浜虚子(著)
隣りに言葉なまり奇妙なる二人連れの饒舌じょうぜつもいびきの音に変って、向うのせなあが追分おいわけを歌い始むれば甲板に誰れの持て来たものか轡虫くつわむしの鳴き出したるなど面白し。
東上記 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
「さあ、ずっとお這入なさいよ。檀那はさばけた方だから、遠慮なんぞなさらないがい」轡虫くつわむしの鳴くような調子でこう云うのは、世話をしてくれた、例の婆あさんの声である。
(新字新仮名) / 森鴎外(著)
女が去った後自分は立って雨戸を一枚あけて庭を見た。霧のように細かな雨が降っている。何処どこかで轡虫くつわむしの鳴くのが静かな闇に響く。夢から醒めたような心持である。
やもり物語 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)