極月ごくげつ)” の例文
「……けれどたってのお言葉ゆえ申上げます。去年の極月ごくげつはじめでございましたか、長州藩の広岡さまが二日ほどご滞在あそばしました」
日本婦道記:尾花川 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
要次郎の言った通り、この極月ごくげつの寒い夜に、影を踏んで騒ぎまわっているような子供のすがたは、一人も見いだされなかった。
影を踏まれた女 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
町奉行の手へ引取ひきとられ翌々日よく/\じつ享保四年極月ごくげつ十六日初めて文右衞門の一件白洲しらすに於て取調とりしらべとなり越前守殿出座有て文右衞門を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
一つ消え二つ消え、御用提灯が消えるに連れて呼び合う声も遠ざかり、やがて全くひっそりとなり、寛永五年極月ごくげつの夜は再び静けさを取り返した。
三甚内 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
丁度、去年の極月ごくげつ十五日に、亡君のあだを復して、泉岳寺せんがくじへ引上げた時、彼みずから「あらたのし思いははるる身はすつる、うきよの月にかかる雲なし」
或日の大石内蔵助 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
甲戌きのえいぬの歳も押詰って、今日は一年のドンじりという極月ごくげつの卅一日、電飾眩ゆい東京会館の大玄関から、一種慨然たる面持で立ち現われて来た一人の人物。
魔都 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
松平伊豆守信綱(此時四十二)が、改めて征討の正使として、嫡男甲斐守輝綱(此時十八)以下従士千三百を率いて西下したのは、寛永十四年極月ごくげつ二十八日であった。
島原の乱 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
恥しいのも寒いのも打忘れて極月ごくげつヒュー/\風の吹きまするのをもいとわず深更しんこうになる迄往来なかたゝずんで居て、人の袖にすがるというは誠に気の毒な事で、人も善い時には善い事ばかり有りますが
政談月の鏡 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
極月ごくげつ末までかゝり申候」と云つてあるから、五箇月間通つたのである。
寿阿弥の手紙 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)
そこから出るお台場行の汽船の大きな看板も……いえばそれも震災まえにはみられなかったものである……その下にさがった活動写真のビラも、折からの曇った空、極月ごくげつのその曇りぬいた空を
春泥 (新字新仮名) / 久保田万太郎(著)
極月ごくげつの十三日——極月などという言葉はこのごろ流行らないが、この話は極月十三日と大時代おおじだいに云った方が何だか釣り合いがいいようである。
半七捕物帳:61 吉良の脇指 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
つく極月ごくげつ廿八日は吉日なりとて西濱にて新艘卸しんざうおろしをなし大坂へまはして一商賣ひとしやうばいせんつもりなりし此事はかねて吉兵衞も承知しようちの事なれば心に思ふ樣是より西濱にしはまに到り船頭せんどう
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
五年前の極月ごくげつ二十日、初雪の降った晩のこと、霊岸島の川口町で無尽に当たった帰路かえりみちを、締め殺されたそのあげく河の中へ投げ込まれ、死骸の揚がったはその翌日
三甚内 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
路は悪いが甲州街道を身延みのぶまで出にやなら無えから、忘れもし無え、極月ごくげつの十一日、四谷の荒木町を振り出しに、とうとう旅鴉たびがらすに身をやつしたが、なりは手前てめえも知つてた通り
鼠小僧次郎吉 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
出がけに妹からそう云われて、藤六はああもう極月ごくげつの五日かと思い
足軽奉公 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
要次郎の云つた通り、この極月ごくげつの寒い夜に、影を踏んで騒ぎまはつてゐるやうな子供のすがたは一人も見出みいだされなかつた。
かさぬ時分なるに此四郎右衞門は如何にも眞實者しんじつものなればこまると聞て利も取らず極月ごくげつ金百兩かしたり斯の如く鰻登うなぎのぼりに借る事三郎兵衞もとより心に一物あれば此百兩の金を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
季節は極月ごくげつにはいったばかり、月も星もない闇の夜で雪催いの秩父おろしがビューッと横なぐりに吹いて来るごとに、思わず身顫いが出ようという一年中での寒い盛り。……
大鵬のゆくえ (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
前回には極月ごくげつ十三日の訪問記をかいたが、十二月十四日についても、一つの思い出がある。