寛文かんぶん)” の例文
これは「武鑑」、こと寛文かんぶん頃より古い類書は、諸侯の事をするに誤謬ごびゅうが多くて、信じがたいので、いて顧みないのかも知れない。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
寛文かんぶん十二年というと、かれはもう四十五歳、宿志しゅくしを立ててから二十七年。史寮を設けてそれに着手してからちょうど十五年になる。
梅里先生行状記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
寛文かんぶん年間に、蚕飼川こかいがわから平須沼ひらすぬまへ掛けて、新たに五十間幅に掘割られた新利根川。それは立木たつき台下だいしたに横わっているので有った。
死剣と生縄 (新字新仮名) / 江見水蔭(著)
寛文かんぶん十一年の正月、雲州うんしゅう松江まつえ祥光院しょうこういん墓所はかしょには、四基しきの石塔が建てられた。施主はかたく秘したと見えて、誰も知っているものはなかった。
或敵打の話 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
与右衛門はそれでも女房のことを心配していたが、それは寛文かんぶん十一年すなわちおきくが十三の八月まで生きてその月の中旬なかごろに死んだ。
累物語 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
彼は寛文かんぶん三年の九月、日本堤にほんづつみで唐犬権兵衛等の待伏せに逢った時に、しんがりになって手痛く働いて、なますのように斬りきざまれて死んだ。
番町皿屋敷 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
寛文かんぶん三年の春が来た。甚兵衛は、明けて四十六の年を迎えた。天草の騒動から数えて二十六年になった。その間、報恩の機会はついに来なかったのである。
恩を返す話 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
常陸国誌ひたちこくし』のしるすところに依れば、鹿島事触ははやく現われ、すでに寛文かんぶん十年(一六七〇)という年に、寺社奉行は大宮司だいぐうじ則教の申立もうしたてに基づいて、彼らの業務を祈祷きとうと札配りとに限定し
海上の道 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
寛文かんぶん延宝えんぽう以降時勢と共に俳優の演技ようやく進歩し、戯曲またやや複雑となるに従ひ、演劇は次第に純然たる芸術的品位を帯び昔日せきじつの如く娼婦娼童の舞踊に等しき不名誉なる性質の幾分を脱するに至れり。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
その後寛文かんぶん頃の句に
墨汁一滴 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
寛文かんぶん十二年二月二十一日晩方、高田殿は逝去した。天徳寺に之を葬った。天和てんな元年には、家断絶。世にいう越前家の本系は全く滅亡に及んだのだ。
怪異黒姫おろし (新字新仮名) / 江見水蔭(著)
ところが寛文かんぶん七年の春、家中かちゅうの武芸の仕合しあいがあった時、彼は表芸おもてげい槍術そうじゅつで、相手になった侍を六人まで突き倒した。
或敵打の話 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
翁草に興津が殉死じゅんししたのは三斎の三回だとしてある。しかし同時にそれを万治まんじ寛文かんぶんの頃としてあるのを見れば、これは何かの誤でなくてはならない。
海岸線が欠けたかまの形をした土佐の東南端、俗にお鼻の名で呼ばれている室戸岬むろとみさきから半里の西の室戸に、古い港があって、寛文かんぶん年間、土佐の経世家として知られている野中兼山のなかけんざんが開修したが
海神に祈る (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
卜幽は、寛文かんぶん十年に死んだ。
梅里先生行状記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
寛文かんぶん十年陰暦いんれき十月の末、喜三郎は独り蘭袋に辞して、故郷熊本へ帰る旅程にのぼった。彼の振分ふりわけの行李こうりの中には、求馬もとめ左近さこん甚太夫じんだゆうの三人の遺髪がはいっていた。
或敵打の話 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
しかし可笑おかしい事には、外題げだいに慶安としてあるものは、後に寛文かんぶん中に作ったもので、真に慶安中に作ったものは、内容を改めずに、後の年号を附して印行いんこうしたものである。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)