さい)” の例文
伊籍は、さい夫人や蔡瑁が、劉琦をさしおいて、弟の劉琮を国主に立てたことを痛憤して、その鬱懐うっかいを、玄徳へ訴えに来たのであった。
三国志:07 赤壁の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
葉公に見切りをつけて、楚からさいに引きかえす孔子の心は、いくぶん淋しかった。彼は車にゆられながら、眼をとじては、じっと考えに沈んだ。
論語物語 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
(八) 孔子がちんさいの間にあった時、楚は人をして孔子をへいせしめた。陳・蔡の大夫はこれを妨げんとした。楚の昭王は師をおこして孔子を迎えた。
孔子 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
後に尚書しょうしょに立身した呂安老りょあんろうという人は、若いときにさい州の学堂にはいっていた。
一行が招かれての昭王のもとへ行こうとした時、ちんさいの大夫共が相計り秘かに暴徒を集めて孔子等を途に囲ましめた。孔子の楚に用いられることをおそれこれを妨げようとしたのである。
弟子 (新字新仮名) / 中島敦(著)
(二七)桓公くわんこうじつ少姫せうきいかつて、みなみのかたさいおそふ。管仲くわんちうつてち、(二八)包茅はうばうの・周室しうしつ入貢にふこうせざるをむ。桓公くわんこうじつきたのかた山戎さんじうせいす、しかうして管仲くわんちうつてえんをして召公せうこうまつりごとをさめしむ。
「とんでもない。愚痴をこぼしたわけではないよ。それどころか、そなたの父、さい大臣のお引立ては、夢寐むびの間にも、忘れてはおらん」
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「世家」によると、孔子がさいうつって三年、呉が陳を伐ち、楚が陳を救った。その時楚は、孔子が陳・蔡の間にあるを聞いて、人をして孔子をへいせしめた。
孔子 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
楽長のは斉に去った。亜飯あはんかんに去った。三飯のりょうさいに去った。四飯のけつしんに去った。鼓師つづみし方叔ほうしゅくは河内に逃げた。鼓師つづみしは漢に逃げた。
現代訳論語 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
せっかく、さい大臣の生辰綱しょうしんこう輸送の大役を果たしえても、後日、しゃの口からそんな讒訴ざんそ堂上どうじょうの耳に入れられたらすべては水の泡だろう。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
臧文仲ぞうぶんちゅうは、諸侯でもないのに、国の吉兆を占うさいをもっている。しかもそれを置くせつには山の形を刻み、せつには水草の模様を描いているが、それは天子の廟の装飾だ。
現代訳論語 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
日ならずして、などというなまぬるさでは心もとない。さい大臣が、この身を目付役として、差し向けられた一事でもおわかりだろう。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
昔、孔子が門人たちと共に天下を巡歴して、ちんの国とさいの国の国境近くを通っていた時、無道の人たちに囲まれ、糧食を断たれて飢え死にしそうになったことがありました。
青年の思索のために (新字新仮名) / 下村湖人(著)
襄陽の城には、先頃から幼国主劉琮りゅうそう、その母さい夫人以下が、けい州から移住している。玄徳は、城門の下に馬を立て
三国志:07 赤壁の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「私についてちんさいを旅した門人たちは、今はもう一人も門下にはいない。」
現代訳論語 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
魏が全力をあげて来た征呉大艦隊は、すでにさいえい(河南省・安徽省)から淮水わいすいへ下って、その先鋒は早くも寿春(河南省・南陽)へ近づきつつあると伝えられた。
三国志:10 出師の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
さい夫人は、穏やかならぬ胸を抱いた。彼女の兄蔡瑁さいぼうや腹心の張允ちょういんも、大不満を含んで、早くも
三国志:07 赤壁の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
劉琦りゅうきは、前の妻ちん夫人の腹であり、次男劉琮りゅうそうは、さい夫人のした子である。
三国志:06 孔明の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
さいえいから湖北の淮水わいすいへ出て、寿春、広陵にいたり、ここに揚子江ようすこうをさしはさんで呉の水軍と大江上戦を決し、直ちに対岸南徐へ、敵前上陸して、建業へ迫るという作戦の進路を選んだのであった。
三国志:10 出師の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)