あつ)” の例文
京都での待遇のあつかったのみならず、文明十九年の十一月に義尚はわざわざ江洲鉤りの里の陣からして吉見六郎を使として京都なる実隆のもとへやり
唯殊恩のあつきを感佩かんぱいして郷里に歸り、曾て風波の痕を見ざりしは、世界中に比類少なき美事と云ふ可し。
帝室論 (旧字旧仮名) / 福沢諭吉(著)
しかし蘭軒を遇することは旧に依つてあつかつたのである。翌年元旦の詩の引に、蘭軒はかう書いてゐる。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
恩を着るはなさけの肌、師にあつきは弟子ていしの分、そのほかには鳥と魚との関係だにないと云い切ってしまった。できるならばと辛防しんぼうして来たうそはとうとういてしまった。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
(六六)周澤しうたくいまあつからざるに、しか(六七)きはめてなれば、せつおこなはれてこうるときはすなは(六八)とくく、せつおこなはれずしてはいるときはすなはうたがはれん、かくごとものあやふし。
私は従来の身の上話や雑誌の事などを申上げたところ、先生はよくこれを聴かれあつき同情の心を寄せられ、私に対し非常な好意を示された。中村春二先生に関しては次の事を記さねばならない。
「一双遊屐蝋成新。擬賞江山未了因。但覚君恩於我渥。三旬還賜水雲身。」〔一双ノ遊屐蝋成リテ新タ/賞セント擬ス江山未了ノ因/但覚ユ君恩ノ我ニ於テあつキヲ/三旬タ賜フ水雲ノ身ヲ〕その他一首が載せてある。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
且壽阿彌の經歴には、有力者のあつ庇保ひはうもとに立つてゐたのではなからうかと思はれる節が、用達問題以外にもある。久しく連歌師の職に居つたのなどもさうである。
寿阿弥の手紙 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)
(九四)曠日くわうじつ彌久びきうして(九五)周澤しうたくすであつきをば、ふかはかるもうたがはれず、交〻こもごもあらそふもつみせられず、すなはあきらか利害りがいはかりてもつ其功そのこういたし、ただちに是非ぜひしてもつ(九六)其身そのみかざる。