杜甫とほ)” の例文
杜甫とほの詩は、彫琢ちょうたくのみのあとが覗えるけれども、一方には思い切って、背を向けて立ち去る者の、あの爽やかさがある。
二十歳のエチュード (新字新仮名) / 原口統三(著)
漢書は蕪村の愛読せし所、その詩を解すること深く、芭蕉が極めておぼろに杜甫とほの詩想を認めしとは異なりしなるべし。
俳人蕪村 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
西欧の詩人吾これをつまびらかにせず、東洋の古今ただ詩作家の少なからざるを見るのみ、真詩人の態度を得たるものあるを知らず、屈原くつげん陶潜とうせん杜甫とほ李白りはく
絶対的人格:正岡先生論 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
杜甫とほの「夢李白りはくをゆめむ」の詩に「故人入我夢こじんわがゆめにいる我長相憶わがながくあいおもうをあきらかにす」と詠じたのも、後二条院ごにじょういん
自警録 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
隴西ろうせい李白りはく襄陽じょうよう杜甫とほが出て、天下の能事を尽した後に太原たいげん白居易はくきょいいで起って、古今の人情を曲尽きょくじんし、長恨歌ちょうこんか琵琶行びわこうは戸ごとにそらんぜられた。
魚玄機 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
キリストもシャカも老子ろうし孔子こうし空海くうかい日蓮にちれん道元どうげん親鸞しんらんもガンジイも歩いた。ダヴィンチも杜甫とほ芭蕉ばしょうも歩いた。科学者たちや医者たちも皆よく歩いています。
歩くこと (新字新仮名) / 三好十郎(著)
杜甫とほに「飲中八仙歌」がある。気象が盛んで華やいでいる。いてくらべるのではないが、真淵の「うま酒の歌」においても同じことがいえる。そこで鶴見はこう考えている。
支那の詩は李白りはくにしろ、杜甫とほにしろ、日本人に膾炙かいしゃされているのは知るごとくである。自然観に、人生観に、同じきがためだ。これを見ると、東洋は元一国という感じさえ起こるのである。
日本的童話の提唱 (新字新仮名) / 小川未明(著)
これは更にずつと古い杜甫とほの「前出塞ぜんしゆつさい」の詩の結末——ではない一首である。
(三)何物をも見遁みのがさゞる敏捷びんせふ 徳富蘇峰の将来之日本を以て世に出づるや、彼れは世界の将来が生産的に傾くべきを論ずる其著述に於て、杜甫とほの詩を引証し、伽羅千代萩めいぼくせんだいはぎの文句を引証し
明治文学史 (新字旧仮名) / 山路愛山(著)
思い出したように、この、杜甫とほの酒中八仙歌の一節を、朗々吟じながら——。
丹下左膳:03 日光の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
杜工部とこうぶ集のごときこれなり。蕪村の規模は杜甫とほのごとく大ならざりしも、とにかく千首の俳句ことごとく巧みなるに至りては他に例を見ざるところなり。
俳人蕪村 (新字新仮名) / 正岡子規(著)
彼は何にりてここに悟るところありしか。彼が見しこと聞きしこと時に触れ物に触れて、残さず余さずこれを歌にしたるは、杜甫とほが自己の経歴をつまびらかに詩に作りたるとあい似たり。
曙覧の歌 (新字新仮名) / 正岡子規(著)
世に羲之ぎしを尊敬せざる書家なく、杜甫とほを尊敬せざる詩家なく、芭蕉ばしょうを尊敬せざる俳家なし。しかも羲之に似たる書、杜甫に似たる詩、芭蕉に似たる俳句に至りては幾百千年の間絶無にして稀有けうなり。
墨汁一滴 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)