弘化こうか)” の例文
その辺の石碑やほこらの多くは、あるものは嘉永、あるものは弘化こうか、あるものは文久年代の諸国講社の名の彫り刻まれてあるものだ。
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
そして、おいらは、一八四五年(弘化こうか二年)に、この島で生まれて、フロリスト・ウィリアム、と名まえをつけられた。
無人島に生きる十六人 (新字新仮名) / 須川邦彦(著)
弘化こうか年間に出来た『駿河するが新風土記しんふどき』には、府中すなわち今の静岡市の物産の中に栲布というものがあって
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
国重の名ようやく忘れらるるを待ちて(弘化こうか二年)歌川国貞またみずから先師の名を継ぎ同じく二代豊国と称しぬ。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
抽斎が四十三、五百が三十二になった弘化こうか四年に生れて、大正五年に七十歳になる。抽斎は嘉永四年に本所ほんじょへ移ったのだから、勝久さんはまだ神田で生れたのである。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
もっともそれには理由わけがあるので、お染の産れたその同じ日に——詳細くわしく云えば弘化こうか元年八月十日のことであるが、藤九郎の女房のおはんというのが、やはり女の児を産んだ。
大捕物仙人壺 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
夫婦むつまじく豊かに相暮しましたが、夫婦の間に子が出来ませんので、養子を致して、長二郎の半之助は根岸へ隠居して、弘化こうか巳年みどしの九月二日ふつかに五十三歳で死去いたしました。
名人長二 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
またそれに続いた天保てんぽう弘化こうかの時代も暗黒の時代であります。暗黒のうちにもなお活動しているものはありますが、しかしこの「俳諧略史」の眼にはそれらは少しも映じません。
俳句とはどんなものか (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
弘化こうか四年四月三十一日(卅日の誤か)藩籍を脱して(この時年卅六、七)四方に流寓りゅうぐうし後つい上道じょうとう大多羅おおたら村の路傍ろぼうに倒死せり。こは明治五、六年の事にして六十五、六歳なりきといふ。
墨汁一滴 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
これは弘化こうか年度に生れて今まで存在ながらえている老人としより言草いいぐさのように聞えます。
離婚について (新字新仮名) / 与謝野晶子(著)
この時春琴が生んだ子はよそへもらわれて行ったのである弘化こうか二年の生れに当るから今日存命しているとも思われないし貰われて行った先も知れていないいずれ両親がしかるべく処置したのであろう。
春琴抄 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
ペリイはこの使命を果たすために堅き決心をかため、弘化こうか年度に江戸湾に来て開港の要求を拒絶されたビッドル提督の二の舞いを演ずまいとした。
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
抽斎はこの詩を作ってから三年ののち弘化こうか元年に躋寿館せいじゅかんの講師になった。躋寿館は明和めいわ二年に多紀玉池たきぎょくち佐久間町さくまちょうの天文台あとに立てた医学校で、寛政かんせい三年に幕府の管轄かんかつに移されたものである。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
天保十五年は十二月二日に弘化こうかと改められた。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
その船の長さ二十七、八けん、その幅八、九間、その探さ六、七間、それに海賊その他に備えるための鉄砲二十ちょうほどと想像して見るがいい。これが弘化こうか年度あたりに渡来した南蛮船だ。
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
弘化こうか安政のころから早くも尊王攘夷の運動を起こして一代の風雲児とうたわれた彼、あるいは堂上の公卿に建策しあるいは長州人士を説き今度の京都出兵も多くその人の計画に出たと言わるる彼
夜明け前:02 第一部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
すでに弘化こうか安政のころからである。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)