おなじく)” の例文
恭忠は備後国福山の城主阿部あべ伊勢守正倫まさともおなじく備中守正精まさきよの二代に仕えた。そのだん枳園を挙げたのは、北八町堀きたはっちょうぼり竹島町たけしまちょうに住んでいた時である。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
おなじく三十日には、寛は蕨を採りて喰料を補わんとして、草鞋はきにて藁叺わらかますを脊負い、手には小なる籠を持ち、籠にみつる時は藁叺に入るる事とせり。
関牧塲創業記事 (新字新仮名) / 関寛(著)
所へ通りかゝりましたは土岐伊豫守様の御家来原丹治はらたんじおなじく丹三郎たんざぶろうという親子の侍、湯治に参りまして帰り掛けに、先程から女の声で人殺しと云うは何事なるかと急いで来て見ると
塩原多助一代記 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
おなじく角町すみちょう海老屋えびやの女郎客の難に逢いし事
雪柳 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
弁慶は夏もかこみの羽織かな おなじく
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
おなじく見習 近藤七郎右衛門
南国太平記 (新字新仮名) / 直木三十五(著)
玄川先祖より次第にはかう記してある。「法眼はふげん紹巴、おなじく玄仍げんじよう、同玄陳、同玄俊、玄心、紹尹せうゐん、玄立、玄立、法橋ほつけう玄川寛政六年六月二十日法橋」
寿阿弥の手紙 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)
おなじく廿五日、寛は帰塲せり。
関牧塲創業記事 (新字新仮名) / 関寛(著)
取巻は河原崎座の作者岩井紫玉、同座附茶屋の主人武田屋馬平、品川の幇間ほうかん富本登名太夫となたゆうおなじく熨斗太夫のしたゆう、桜川善二坊、その他俳諧師牧乙芽まきおつが、力士勢藤吾いきおいとうご等であった。
細木香以 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
おなじく唐人町で話してゐた二人も、濱田太左衞門が一人斬つて一人取り逃がした。町人共は震え上がつた。
栗山大膳 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)
大岡紀伊守忠愛きいのかみたゞちかの預つてゐた平山助次郎、大阪から護送して来た吉見九郎右衛門、おなじく英太郎、河合八十次郎やそじらう、大井正一郎、安田図書やすだづしよ、大西与五郎よごらう美吉屋みよしや五郎兵衛、おなじくつね
大塩平八郎 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
また吉原に往った時に呼ばれたものは都有中うちゅうおなじく権平、同米八、清元千蔵、同仲助、桜川寿六、花柳鳴助等である。中にも有中は香以がその頓才とんさいを称して、常にかたわらに侍せしめた。
細木香以 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
これに反して所謂いわゆる庵室は昔馴染の芸人等の遊所となった。俳優中では市川新車、おなじく市蔵、同九蔵、板東家橘かきつ等が常の客であった。新車は後の門之助、家橘は後の五代目菊五郎である。
細木香以 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
抽斎の妻比良野氏ひらのうじが「徧照院妙浄日法大姉」とし、おなじく岡西おかにし氏が「法心院妙樹日昌大姉」としてあったが、その石の折れてしまったあとに、今の終吉さんの父の墓が建てられたのだそうである。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
「山本宇平殿、おなじく九郎右衛門殿、桜井須磨右衛門、平安」と読んだ時、木賃宿でも主従の礼儀を守る文吉ではあるが、兼て聞き知っていた後室こうしつの里からの手紙は、なんの用事かと気がいて
護持院原の敵討 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
多紀安琢あんたくおなじく元佶げんきつ、伊沢柏軒、山田椿庭ちんていらが病牀びょうしょうに侍して治療の手段を尽したが、功を奏せなかった。椿庭、名は業広ぎょうこう、通称は昌栄しょうえいである。抽斎の父允成ただしげの門人で、允成の歿後抽斎に従学した。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
平八郎はせがれ格之助、瀬田以下の重立おもだつた人々を呼んで、手筈てはずとほりに取り掛かれと命じた。北側の今橋筋いまばしすぢには鴻池屋こうのいけや善右衛門、おなじく庄兵衛、同善五郎、天王寺屋五兵衛、平野屋五兵衛等の大商人おほしやうにんがゐる。
大塩平八郎 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)