俚諺りげん)” の例文
貞派の好んで俚諺りげん、俗語を用ゐしに変りて、これは好んで和歌、謡曲を用ゐたり。これ談林が品格において既に貞派にまさりたる所以なり。
古池の句の弁 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
童謡俚諺りげんを尋ね、あるいは古音旧辞をきわめ、歌詞楽舞を伝えて、古史研究に文献学に少からぬ寄与をされた功は特筆せねばなるまいと思う。
紀州などの俚諺りげんに、「麦は百日のきしゅんに三日のりしゅん、稲は百日の苅りしゅんに三日の植付時うえつきどき」ということがある。
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
螻蟻ろうぎの一念は天へもつうずとの俚諺りげんむべなるかな大岡殿此度このたび幸手宿三五郎つまふみの申立をきかれ武州こう鎌倉屋金兵衞方へ差紙さしがみ
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
英国の俚諺りげんに、三月は獅子のように来り、子羊のごとく去るというは、初め厳しく冷ゆるが、末には温かになるをす。
日本の古い俚諺りげんに「見えはる男にはれられぬ。」というのがある。そのわけは、そういう男の心には、愛を注いで満たすべきすきまがないからである。
茶の本:04 茶の本 (新字新仮名) / 岡倉天心岡倉覚三(著)
その頃、私は出しゃばる癖があったが、某先生が修身の時間に「実の入らぬ首折れれ」という俚諺りげんを説明して、私に諷刺をしたので、私はにわかにだんまりになった。
私の子供時分 (新字新仮名) / 伊波普猷(著)
それは或俚諺りげんの来歴を語つてゐるのである。「源士明いはく。俗に藪の中香々かう/\といふ事あり。人熱田之事をひけどもさにあらず。傭中之佼々ようちゆうのかう/\といふ語の転音ならむ」
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
「女賢シウシテ牛売リ損ネル」という俚諺りげんは、日頃、耳目に熟していながら、さて、これを紙に書いて、その解釈を附する段になって、神尾がハタと当惑したのであります。
大菩薩峠:34 白雲の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
祖母に育てられた俚諺りげんにも三もんやすいと言われているのも無理ではない。わたくしは小石川こいしかわなる父母の家を離れて下谷なる祖母の家に行くことをいかにうれしく思ったであろう。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
べつの章でも書いたように、この土地の人たちは好んで俚諺りげんたとえ話を引用する。
青べか物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
俚諺りげんにいわく、「門前の小僧習わぬ経を読む」と。けだし寺院のかたわらに遊戯する小童輩は、自然に仏法に慣れてその臭気を帯ぶるとの義ならん。すなわちぶつの気風に制しらるるものなり。
徳育如何 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
それ「武士は食わねど高楊枝」とは実に封建武士の気風を穿うがちたるの俚諺りげんなり。しかして論者はわが邦をしてこの貧乏武士を学ばしめんと欲するか。ああ論者もまた封建武士の子孫なるかな。
将来の日本:04 将来の日本 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
種々の俚諺りげん、時としては、通りがかりに耳にした言葉、市井しせいの会話の断片、子供の考え——たいていはつたない散文的な文句ではあるが、しかしまったく純な感情がその中に透かし見られるものだった。
という木曾地方の俚諺りげんなども、同書のうちからったのである。
随筆 新平家 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
至って平和なる里中にも親に似ぬ子は鬼子という俚諺りげんは、今もって行われていて、時々はまたこれを裏書うらがきするような事件が、発生したとさえ伝えられるのである。
山の人生 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
べつの章でも書いたように、この土地の人たちは好んで俚諺りげんたとえ話を引用する。
青べか物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
食を与ふる者ぞ我が主也ものくゐゆすどわーおしゆー」という俚諺りげんもこういう所から出たのであろうと思います。誰が何といっても、沖縄人は死なない限りは、自らこの境遇を脱することが出来なかったのであります。
琉球史の趨勢 (新字新仮名) / 伊波普猷(著)
あがてだをがみゆる、さがてだをがまぬ」という沖縄の俚諺りげんくこの辺の消息をもたらしている。実に沖縄人に取っては沖縄で何人なんぴとが君臨しても、支那で何人が君臨しても、かまわなかったのである。
沖縄人の最大欠点 (新字新仮名) / 伊波普猷(著)