一顧いっこ)” の例文
かつてあんなにも恋いこがれていたその人を、一顧いっこの価値もない腐肉の塊であると観じて、清く、貴く、豁然かつぜんと死んで行ったであろうか。
少将滋幹の母 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
私の深切しんせつ一顧いっこをも与えず、邪魔だからどいて居れと叱った所のその人を、私は今でも数人の臨検者の中から見付け出すことが出来る。
一枚の切符 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
腰抜け彌八が心魂籠しんこんこめて書いた三百六十何本の色文も、浮気な娘達の一顧いっこも買わずに、灰や泥になってしまったことでしょう。
だが、そんな若い頃の夢は、今の現実のまえには、一顧いっこの価もないし、むしろのろわしい気がよけい胸を噛むばかりである。
新書太閤記:01 第一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
たとえその石が金に置き換えられようと銀に置き換えられようと、それが事実の道端に転がっている以上、僕に取って一顧いっこの価値もないことは石同様なのだ。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
もし万一ミカンの実の中に毛がえなかったならば、ミカンはえぬ果実としてだれもそれを一顧いっこもしなかったであろうが、さいわいにも果中かちゅうに毛がえたばっかりに
植物知識 (新字新仮名) / 牧野富太郎(著)
「なぜそんなつまらない事を聞くのよ」と云った彼女は、ほとんど一顧いっこあたいしない風をした。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
駅員らは何か話合うていたらしく、自分の切願に一顧いっこをくれるものも無く、挨拶もせぬ。
水害雑録 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
もとより土居光一の予想は外れて、あやかさんはもはや彼には一顧いっこにも及ばなかったが、然し一馬も決して幸福な結婚ではなかったようだ。尤も別に浮気をするというような事ではない。
不連続殺人事件 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
湯銭さえ受けとれば後は御勝手といわぬばかりに、番台の男はこくりこくりやっているし、もう数少なの客達も、皆めいめいの帰りを急いで、氏や老人に一顧いっこさえ与える者はいなかった。
地図にない街 (新字新仮名) / 橋本五郎(著)
赤いところから赤いところへ、なろうことならば赤いところだけ通って歩こうとする。頂きなどはたいてい赤くないから一顧いっこも与えられない。その手前から戻ってくるか、さもなければ捲いてしまう。
ピークハンティングに帰れ (新字新仮名) / 松濤明(著)
なべて自然の風物というものは見る人のこころごころであるからこんな所は一顧いっこのねうちもないように感ずる者もあるであろう。
蘆刈 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
それらの者には一顧いっこもせず、そうかといって迎えに来ている知人もないらしく、美少年は小猿をかついで、真っ先にこのみなとから姿を消してしまった。
宮本武蔵:04 火の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
暗澹あんたんたる闇の中に一縷いちるの光明が燃え始めた。それは犯罪者の屡々おちいる馬鹿馬鹿しい妄想であったかも知れない。第三者から見れば一顧いっこの価値もない愚挙であったかも知れない。
灰神楽 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
これを栽植さいしょくしたものが時折ときおり神社の庭などにあるのだが、そんな場合、多少実が大きく、小さいコウジの実ぐらいになっているものもあれど、食用果実としてはなんら一顧いっこの価値だもないものである。
植物知識 (新字新仮名) / 牧野富太郎(著)
わしが湖畔の道へかかると、松原の中で、あかねの陣羽織を着た男が、余念なく、馬の稽古を励んでおる。この方の行列にさえ一顧いっこもくれず馬ばかり飛ばしているのだ。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そして信長の一顧いっこの言、或いは一笑にでも触れて退がれば、献物の珍器宝什ほうじゅうや美酒佳肴かこうの百倍千倍にも値いするものを獲たような歓びを抱いてみな帰り去るのである。
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
と、一顧いっこをみせて通るのが、せめてここにある彼の家族的なくつろぎといえばいえる。
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
愁然と、それへ一顧いっこあわれみを送っているもあり、また「はや身軽」と勢いづいて登って行く者もある。すると、その先頭でとつぜん大きな声があった。「敵だッ!」と下へ教える。
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
文観は、馬上に返ると、高い所からの一顧いっこの愛想を道誉に残して行ってしまった。
秀吉のすがたが見えても、ここの奉行や督励とくれいしている侍たちは、彼をふり返る者もない。また、何千の木工、土工、左官、石工いしく、あらゆる工匠たくみや人夫たちも、一顧いっこしているすきもなかった。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
けれど藤吉郎には、一顧いっこ会釈えしゃくもしなかった。
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)