“翅音(はおと)” の例文
のみならずその時一匹の蜂は、斜に床の上へ舞ひ下ると、鈍い翅音(はおと)を起しながら、次第に彼の方へ這ひ寄つて来た。
老いたる素戔嗚尊 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
と思ふ間にくるッと起きあがり、そのまゝ空中に飛びあがると、ブルルンといふ翅音(はおと)を立てながら、お縁を飛び出して、庭の空にまひあがつてしまひました。
かぶと虫 (新字旧仮名) / 槙本楠郎(著)
ある時、今天井に舞ひ上つたと見たジガ蜂が、「ぶあん」といふやうな翅音(はおと)とも思へぬやうな大きな音を立てたかと思ふと、急降下で、一直線に落ちて来たことがあつた。
ジガ蜂 (新字旧仮名) / 島木健作(著)
壁の上にも硝子天井にも、小指の頭ほどもある大きな銀蠅がベタいちめんにはりついていて、なにか物音がするたびに、ワーンとすさまじい翅音(はおと)をたてて飛び立つのだった。
昆虫図 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
わざと大袈裟(おほげさ)に頭(あたま)をかきながら、夫(をつと)は鞠(まり)を追(お)つた。そして、庭(には)の一隅(すみ)の呉竹(くれたけ)の根元(ねもと)にころがつてゐるそれを拾(ひろ)ひ上(あ)げようとした刹那(せつな)、一匹(ぴき)の蜂(はち)の翅音(はおと)にはつと手(て)をすくめた。
画家とセリセリス (旧字旧仮名) / 南部修太郎(著)
お高の繰る糸車の音が、ぶんぶんと、そのうららかな朝の空気をふるわせて聞えてくる、蜂(はち)の翅音(はおと)にも似たしずかな、心のおちつく柔らかい音である。啓七郎はそれを聞きながら
日本婦道記:糸車 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
翅音(はおと)をたてて舞っている眼の先の虻(あぶ)を眺めていたが、不図其奴が鼻の先に止まろうとすると、この永遠の木馬は、矢庭(やにわ)に怖ろしい胴震いを挙げて後の二脚をもって激しく地面を蹴り
ゼーロン (新字新仮名) / 牧野信一(著)
翅音(はおと)も伴ひ。
すると空に翅音(はおと)がして、たちまち一匹の蜜蜂が、なぐれるように薔薇の花へ下りた。蜘蛛(くも)は咄嗟(とっさ)に眼を挙げた。
女 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
半(なかば)開いた窓の隙間からは鮮かな新芽の緑が覗(のぞ)いて、カアテンの白をそよがす風もなかつた。ぢつと机に向つて腰掛けてゐると、けだるい先生の講義の聲が蜜蜂の翅音(はおと)のやうに聞えてくる。
猫又先生 (旧字旧仮名) / 南部修太郎(著)
夜はすっかり更(ふ)けていた。もうみんな寝たのだろう、客間のほうもひっそりとしている。部屋の隅で蚊の翅音(はおと)がしているし、庭からきりきりきりというような早い夏の鳴虫の音が聞えてくる。
新潮記 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
が、蜘蛛は——産後の蜘蛛は、まっ白な広間のまん中に、痩(や)せ衰えた体を横たえたまま、薔薇の花も太陽も蜂の翅音(はおと)も忘れたように、たった一匹兀々(こつこつ)と、物思いに沈んでいるばかりであった。
女 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
さうして穴(あな)がすつかり埋(う)められてしまふと、蜂(はち)は暫(しばら)く穴(あな)のまはりを歩(ある)きまはつてゐたが、やがてぷうんと翅音(はおと)を立(た)てながら、黒黄斑(くろきまだら)の弧線(こせん)を清澄(せいちよう)な秋(あき)の空間(くうかん)に描(ゑが)きつつどこともなく飛(と)び去(さ)つて行(い)つた。
画家とセリセリス (旧字旧仮名) / 南部修太郎(著)