汝南じょなん)” の例文
袁紹あざな本初ほんしょといい、汝南じょなん汝陽じょよう(河南省・淮河わいが上流の北岸)の名門で門下に多数の吏事武将を輩出し、彼も現在は漢室の司隷校尉の職にあった。
三国志:02 桃園の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
人物汝南じょなんのことから、尊王討幕のことから、攘夷清掃のことに及んで、いつも火の出るような言論戦が行われることはあたりまえであるが、今日は
大菩薩峠:40 山科の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
橚は燕王の同母弟なるをもって、帝もかねて之を疑いはばかり、橚もまた異謀あり、橚の長史ちょうし王翰おうかんというもの、数々いさめたれどれず、橚の次子じし汝南じょなん有㷲ゆうどうの変を告ぐるに及び、このことあり。
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
墓は俗に三王の墓と呼ばれて、今も汝南じょなんの北、宜春ぎしゅん県にある。
今日の策としては、東の地方、汝南じょなん河南省かなんしょう・汝南)から潁州えいしゅうの一帯で、兵馬を養っておくことです。
三国志:03 群星の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
しかも天下の医たるわが劉予州の君には、汝南じょなんの戦にやぶれ、新野の僻地にかがみ、城郭かたからず、甲兵まったからず、粮草ろうそうなおとぼしき間に、曹操が百万の強襲をうけ給う。
三国志:07 赤壁の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
彭城ほうじょう曼才まんさい会稽かいけい徳潤とくじゅん沛県はいけんの敬文、汝南じょなん徳枢とくすう、呉郡の休穆きゅうぼく、また公紀、烏亭うてい孔休こうきゅうなど。
三国志:07 赤壁の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「いま、汝南じょなんにある劉玄徳りゅうげんとくが、劉辟りゅうへき龔都きょうとなどを語らって、数万の勢をあつめ、都の虚をうかがって、にわかに攻め上らんとするかの如く、動向、容易ならぬものが見えまする!」
三国志:06 孔明の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
漢土にもつたえがある。汝南じょなん恒景こうけいというものの家に、或る日、一仙人がのぞいてうには、この秋、災厄あり、それを遁れんと思えば、紅絹もみふくろ茱萸ぐみを入れてひじにかけ高き山に登れと。
上杉謙信 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
博陵はくりょう崔州平さいしゅうへい潁州えいしゅう石広元せきこうげん汝南じょなん孟公威もうこうい徐庶じょしょそのほか、十指に足らん」
三国志:06 孔明の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「折角でしたが、われわれはいずれも、孔明ではありません。ただ臥龍の友だちどもです。それがしは、潁州えいしゅう石広元せきこうげんと申し、てまえの前におる壮士わかものは、汝南じょなん孟公威もうこういという者でござる」
三国志:06 孔明の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
自分はかつて、黄巾賊こうきんぞくの乱にもいささか功をたて、一時は鎮威中郎将ちんいちゅうろうしょうの栄職にありましたが、その後、思うところあって、故郷汝南じょなんに帰っていました。——李通りつうあざな文達ぶんたつと申す者であります
三国志:04 草莽の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「なんの、汝南じょなんへきた袁紹の家臣から聞いたことだから、万まちがいはない」
三国志:05 臣道の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
自分の根城ねじろだった兗州えんしゅうを失地し、その上、いなご飢饉ききんやくにも遭いなどして、ぜひなく汝南じょなん潁川えいせん方面まで遠征して地方の草賊を相手に、いわゆる横行おうこうをやって苦境をしのいでいたが
三国志:03 群星の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そこへ汝南じょなん(河南省)から早馬が到来して一つの変を報じた。
三国志:05 臣道の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)