進士しんし)” の例文
この作者はとう張読ちょうどくであります。張はあざな聖朋せいほうといい、年十九にして進士しんし登第とうだいしたという俊才で、官は尚書左丞しょうしょさじょうにまで登りました。
もちろん女も真実心からそう申しておりました。けれどわたしはそのうちに都にで、進士しんし試験しけんをとるため勉学にはげんだのでございます。
おしどり (新字新仮名) / 新美南吉(著)
この日、明智の家中進士しんし作左衛門は、一小隊の従者をつれて、おくせに、安土あづちから坂本城へ引き揚げて来た。
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
始めは清河せいか崔氏さいしむすめと一しょになりました。うつくしいつつましやかな女だったような気がします。そうしてあくる年、進士しんしの試験に及第して、渭南いなんになりました。
黄粱夢 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
それより七年以前まえの天宝八年に、范陽はんよう進士しんし呉青秀ごせいしゅうという十七八歳の青年が、玄宗皇帝の命を奉じ、彩管さいかんうてしょくの国にり、嘉陵江水かりょうこうすいを写し、転じて巫山巫峡ふざんふきょうを越え
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
唐の貞元年中、博陵はくりょう崔慎思さいしんし進士しんしに挙げられて上京したが、京に然るべき第宅ていたくがないので、他人の別室を借りていた。
進士しんし作左衛門が云い出すまでもなく、この十九日附け発令で、安土から明智家に手交しゅこうされた軍令状というものは、光秀のみならず全家中をして、憤怒ふんぬせしめたものだった。
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
今年わたしは進士しんし試験しけんをとりまして、まちあぐんでいた女のもとに帰ってきました。女はぶじに帰ったわたしをみると狂喜きょうきいたしました。けれどわたしの心はあまりはずまないのでした。
おしどり (新字新仮名) / 新美南吉(著)
紀昀は号を暁嵐ぎょうらんといい、乾隆けんりゅう時代の進士しんしで、協弁大学士に進み、官選の四庫全書を作る時には編集総裁に挙げられ、学者として、詩人として知られて居ります。
旗本、進士しんし作左衛門は、命をうけると、すぐ駒をとばして、多紀郡たきごおりの大善院へ駈けて行った。
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
張允恭ちょういんきょうみん天啓てんけい年間の進士しんし(官吏登用試験の及第者)で、南陽なんようの太守となっていた。
進士しんしの試験勉強に励んでいたが、官府の腐敗を見たり、世間の裏表を知ると、勉学が馬鹿らしくなった結果、試験にも落第してしまったので、ついに自暴やけッぱちの放浪をつづけたあげく
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
この作者はしん袁枚えんばいで、あざな子才しさいといい、号を簡斎かんさいといいまして、銭塘せんとうの人、乾隆けんりゅう年間の進士しんしで、各地方の知県をつとめて評判のよかった人でありますが、年四十にして官途を辞し
だまれ。それくらいな経験は、わが輩もめておる。進士しんしの試験を通って、一郡の奉行となるまでには、あらゆる難に当り、なまやさしいことではなかった。どうでも、十日以内に、犯人全部を
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
洛陽らくようへ上って進士しんしの試験を受けるのを青春第一の関門とした若人たちが——キフヲ負ウテ郷関ヲ出ヅ——と悲歌したが、そんな気もちに似たものが、明治末期のぼくらにも、やはりあったのである。
孟不疑もうふぎという挙人きょじん進士しんしの試験に応ずる資格のある者)があった。
腹心の者、妻木主計つまきかずえ、藤田伝五、四方田政孝、並河掃部なみかわかもん……村上和泉守、奥田左衛門、三宅藤兵衛、今峰頼母いまみねたのも……。そのほか、溝尾庄兵衛みぞおしょうべえ進士しんし作左衛門、斎藤内蔵助利三くらのすけとしみつ……などにも語っておる
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
進士しんし覚明といわれて、その学才は都に聞こえ渡っていたし、木曾殿が兵を挙げた時には、一方の侍大将として、平家の武者を心から寒からしめたほど豪勇な人物であったが、こうして見ていると
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
とにかくあなたが都で進士しんしの試験に通ってめでたく官途につかれたということは、私は遠い北京ほっけいにいて聞いたのです。いやお別れしたのはそれいぜんお互いにまだ一つ童塾てらこやへ通っていた頃ですからな
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)