谿谷たに)” の例文
郷里とは言っても、岸本があの谿谷たにの間の道を歩いて見たことは数えるほどしか無かった。通る度毎たびごとふるい駅路の跡は変っていた。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
眼の下に広々とした谿谷たにがあり、夕べのもやが立ちこめていた。しかしまさしくその靄を破って、無数の立派な家々や、掘割に浮かんでいる船が見えた。
八ヶ嶽の魔神 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
私達わたくしたち辿たど小路こみちのすぐした薄暗うすぐら谿谷たにになってて、樹叢しげみなかをくぐる水音みずおとが、かすかにさらさらとひびいていましたが、せいか、その水音みずおとまでがなんとなくしずんできこえました。
その不完全な工事のめに、高い崖の上にかよっている線路がはずれたり、深い谿谷たにの間にかかっている鉄橋が落ちたりして、めに、多くの人々が、不慮ふりょの災難に、非命ひめいの死をげた事が
大叫喚 (新字新仮名) / 岩村透(著)
偶然ふと先方むこうに座敷のあかりが見えるから、その方へ行こうとすると、それがまた飛んでもない方に見えるので、如何どうしても方角が考えられない、ついぞ見た事のない、谿谷たにの崖の上などへ出たりするので
怪物屋敷 (新字新仮名) / 柳川春葉(著)
耳鳴りほどの谿谷たにの聲 薪を割る杳かな木魂
閒花集 (旧字旧仮名) / 三好達治(著)
お種や三吉の生れた小泉の家は、橋本の家とは十里ほど離れて、丁度この谿谷たにの尽きようとするところにった。その家でお種は娘の時代を送った。
家:01 (上) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
一筋の谷川が谿谷たにを貫いてふもとの方へ流れているが、その涓々けんけんたる水音さえ蒼白いもののように思われる。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
宗介様の肉体はとうにこの世を辞したけれど、魂なお神となってこの谿谷たにに残っておられる筈だ。
八ヶ嶽の魔神 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
岸本の父は故国の山間にあって三百年以上も続いた古い歴史をつ家に生れた人であった。峠一つ越して深い谿谷たにに接した隣村となりむらには、矢張やはり同姓の岸本を名乗る家があった。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
飽くまでも素性を隠せ、今日までの親の苦心を忘れるな、といふ意味であらうか。それで彼の牧場の番小屋を出て、自分のことを思ひ乍ら呼ぶ其声が谿谷たにから谿谷へ響いて居るのであらうか。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
その時谿谷たにの底の方へ半ば傾いた古木の蔭から、ふと進み出た人影がある。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)