縹緲ひょうびょう)” の例文
事が娑婆しゃば世界の実事であり、いま説いていることが儒教の道徳観にもとづくとせば、縹緲ひょうびょう幽遠な歌調でない方が却って調和するのである。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
訶和郎の死体は、眼下に潜んだ縹緲ひょうびょうとした森林の波頭の上で、数回の大円を描きながら、太陽の光にきらきらと輝きつつ沈黙した緑の中へ落下した。
日輪 (新字新仮名) / 横光利一(著)
またある人は知りがたく、解しがたき故に無限の域に儃佪せんかいして、縹緲ひょうびょうのちまたに彷徨ほうこうすると形容するかも知れぬ。何と云うも皆その人の自由である。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
午後三時頃と覚える薄日が急にさして、あたりを真鍮色しんちゅういろに明るくさせ、それが二人をどこの山路を踏み行くか判らないような縹緲ひょうびょうとした気持にさせた。
母子叙情 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
そして眼はいつの間にか南の空に縹緲ひょうびょうとして積翠せきすいを湛えた秩父の山奥深く迷い込んで行くのが常であった。
秩父の奥山 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
北国の春の空色、青い青い海の水色、澄みわたった空と水とは藍をとかしたように濃淡相映じて相連あいつらなる。望む限り、縹緲ひょうびょう、地平線に白銀のひかりを放ち、こうとして夢を見るが如し。
一心不乱と云う事を、目に見えぬ怪力をかり、縹緲ひょうびょうたる背景の前に写し出そうと考えて、この趣向を得た。
幻影の盾 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
もとより内心に確乎かっこたる覚悟があって述べる事でないんだから、顔だけはしかつめらしいが、述べる事の内容は、すこぶる赤毛布式あかげっとしき縹緲ひょうびょうとふわついていたに違ない。
満韓ところどころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
「その時からしてがすでに縹緲ひょうびょうたるものさ。今日こんにちになって回顧するとまるで夢のようだ」
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
はるか向うには、白銀しろかねの一筋に眼を射る高野川をひらめかして、左右は燃えくずるるまでに濃く咲いた菜の花をべっとりとなすり着けた背景には薄紫うすむらさき遠山えんざん縹緲ひょうびょうのあなたにえがき出してある。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
追い懸けて来る過去をがるるは雲紫くもむらさきに立ちのぼ袖香炉そでこうろけぶる影に、縹緲ひょうびょうの楽しみをこれぞと見極みきわむるひまもなく、むさぼると云う名さえつけがたき、眼と眼のひたと行き逢いたる一拶いっさつ
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
端粛とは人間の活力の動かんとして、未だ動かざる姿と思う。動けばどう変化するか、風雲ふううん雷霆らいていか、見わけのつかぬところに余韻よいん縹緲ひょうびょうと存するから含蓄がんちくおもむき百世ひゃくせいのちに伝うるのであろう。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
「あの島か、いやに縹緲ひょうびょうとしているね。おおかた竹生島ちくぶしまだろう」
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
合って自分に残るのは、縹緲ひょうびょうとでも形容してよい気分であった。
思い出す事など (新字新仮名) / 夏目漱石(著)