粟津あわづ)” の例文
粟津あわづ明神の裏に立つと、谷間にかかる滝が眼の下に見え、秋になると紅葉が美しいので、城下から見物に来る者も少なくなかった。
失蝶記 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
それならばと、義仲はひたと今井四郎の顔をみつめると、くるりと馬の首を返して、唯一騎粟津あわづの松原に向って馬を走らせた。
粟津あわづいくさで、むかし、木曾義仲きそよしなかを射とめた石田判官為久いしだのほうがんためひさという人は、わが家の御先祖だと、父から聞いておりました」
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
この山代の湯ぐらいではらちあかねえさ。脚気かっけ山中やまなか、かさ粟津あわづの湯へ、七日湯治をしねえ事には半月十日寝られねえで、身体からだ掻毟かきむしって、目が引釣ひッつり上る若旦那でね。
みさごの鮨 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
湖畔の村々には夕けぶりが立ち出した。からすが鳴く。粟津あわづに来た時は、並樹の松にあおもやがかゝった。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
例えば粟津あわづくちの弘法の池は、村の北の端にある共同井戸でありますが、昔ここにはまだ一つの泉もなかった頃に、ある老婆が米を洗う水を遠くからんで来たところへ
日本の伝説 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
唐崎からさきはあの辺かなど思えど身地を踏みし事なければ堅田かただも石山も粟津あわづもすべて判らず。
東上記 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
この外『新古今』の「入日いりひをあらふ沖つ白浪しらなみ」「葉広はびろかしはに霰ふるなり」など、または真淵まぶちわしあらし粟津あわづ夕立ゆうだちの歌などの如きは和歌の尤物ゆうぶつにして俳句にもなり得べき意匠なり。
俳諧大要 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
この時木曾殿はただ一騎、粟津あわづの松原へ駈けたもう。
丹下左膳:02 こけ猿の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
可惜あたら、一代の弓矢をとって、都にまで入りながら、その都で、我意小慾にとらわれ、都を荒廃こうはいさせて都を落ち、やがて粟津あわづで野たれ死に同様な最期を
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
澄憲法印は、余りにも痛わしい座主の嘆きをみかねて、粟津あわづまで送ってきた。しかしどこまでも送っていくわけにもいかないので、そこで別れを告げることにした。
「八日まえに、紅梅会の者五人と粟津あわづへいったんだ」兵庫は云った、「——もうまもなく祝言だし、西牧へゆけば当分は出られないだろう、母上もぜひやってやれとおっしゃるので、出してやったんだ」
雨の山吹 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
やがて粟津あわづの岸を占領してからは、官軍も腹背ふくはいの脅威にあきらかな苦悶をみせはじめ——またまもなく、正面のこう師泰もろやすも、瀬田の一角を突破していた。
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
日頃、彼が家中の子弟にもいっていたことばを、彼はいま、我とわが身に云い聞かせながら、馬上、槍を横たえて、怒濤どとうと怒濤の相搏あいうつごとき血戦の中を、悠々、少しずつ、粟津あわづの方へ進んでいた。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)