父の為義をはじめ、兄弟の武士たちが、保元の乱で、みなわがために命を捨てて働いたのに、彼一人、われに敵対した。
ここには源氏が二人、故六条判官為義の末子、賀茂冠者義嗣、淡路冠者義久の兄弟を大将として城を構えて待っていた。
“為義(源為義)”の解説
源 為義(みなもと の ためよし)は、平安時代末期の武将。一般的には祖父が源義家、父が源義親とされるが、義家を父とする説もある(後記)。叔父(義家を父とした場合は兄)の源義忠暗殺後に河内源氏の棟梁と称す。通称は六条判官、陸奥四郎。源頼朝・源義経・源範頼・源義仲らの祖父。
当初は白河法皇・鳥羽上皇に伺候するが度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任する。その後、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果たすが、八男の源為朝の乱行により解官となる。保元の乱において崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、後白河天皇方についた長男の源義朝の手で処刑された。
(出典:Wikipedia)
当初は白河法皇・鳥羽上皇に伺候するが度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任する。その後、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果たすが、八男の源為朝の乱行により解官となる。保元の乱において崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、後白河天皇方についた長男の源義朝の手で処刑された。
(出典:Wikipedia)