服部はっとり)” の例文
銀座は昔の面影もなくなったが、天金といった天麩羅屋は、いまの服部はっとりの裏にあり、その所蔵の馬琴、一九、三馬の扇面を私はいま愛蔵している。
江戸の昔を偲ぶ (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
成斎は卒中そっちゅうで死んだ。正弘の老中たりし時、成斎は用人格ようにんかくぬきんでられ、公用人服部はっとり九十郎と名をひとしうしていたが、二人ににん皆同病によって命をおとした。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
「みんな一度はやられているらしいな。土つかずは服部はっとりのおしゅんさんとお前くらいなもんだというじゃないか。」
ひかげの花 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
最後に服部はっとりの地下室で又幾つかの買い物をすると夕飯の時刻になったので、ローマイヤアは気が変らないからと、数寄屋橋際すきやばしぎわのニュウグランドへ上ったのは
細雪:02 中巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
明治以後、氷川明神が服部はっとり坂へ移されてからのお話ですが、小石川の縁日にかむろ蛇の観世物みせものが出ました。
半七捕物帳:55 かむろ蛇 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
私はやはり叔母たちから必要なものを与えられず、そのためこの新任の教師の服部はっとり先生から始終絵具や鉛筆を貸してもらっていた。先生はたしかに私をあわれんでいてくれた。
椿岳及び寒月が淡島と名乗るは維新の新政にあたって町人もまた苗字みょうじを戸籍に登録した時、屋号の淡島屋が世間に通りがイイというので淡島と改称したので、本姓は服部はっとりであった。
伊賀の服部はっとり三河の足助あすけ矢矧衆やはぎしゅうつわものどもが、色さまざまの旗標はたじるし立て、黄や緋縅や白檀びゃくだん磨きや、啄木たくぼく花革はなかわ、藤縅や、さては染め革や柑子こうじ革や、沢瀉おもだかなどの鎧を着、連銭葦毛れんぜんあしげ、虎月毛
あさひの鎧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
機を織る者は機織部はたおりべすなわち服部はっとりであります。また玉を造るものが玉造部たまつくりべ、豚を飼うものが猪飼部いかいべ中臣氏なかとみうじに属している部族が中臣部なかとみべであります。そういうようにみな「」と申しました。
久しく都に見失ひける服部はっとり元成もとなり卯木うつぎとなんいひける者の
私本太平記:03 みなかみ帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
銀座四丁目服部はっとり時計店裏通り、日東紅茶喫茶部二階。
六百句 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
ミス服部はっとりしばらくでした。
藪の鶯 (新字新仮名) / 三宅花圃(著)
服部はっとり良庵という町内の本道(内科医)、頭をまるめた五十年輩、黄八丈に縮緬ちりめんの羽織といった、型のごとき風体です。
何か日本の特産品で彼方の人に喜ばれそうな物はと頭をひねった末、ふと服部はっとりの地下室で螺鈿らでん手筥てばこを見付けたので、それを幸子からの進物とすることにきめ
細雪:03 下巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
氷川神社は服部はっとり坂の小日向神社に合祀ごうしされることになって、社殿のあとは暫く空地あきちのままに残っていましたが、今では立ち木をり払って東京府の用地になっているようです。
半七捕物帳:55 かむろ蛇 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
「じゃお願いするわ。こんどの店は服部はっとり時計店の裏通りでカルメンというのよ。」
ひかげの花 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
そこへ行ってお春にも相伴しょうばんをさせてやり、帰りに夜店を冷やかしてから服部はっとりの角で二人に別れて、幸子と悦子とが浜屋へ歩いて戻ったのは九時過ぎであったろうか。
細雪:02 中巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
享保の老才人服部はっとり南郭の故居は芝森元町もりもとちょう中ノ橋の近くにあった。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)