堅田かただ)” の例文
鐘は鉄面皮にもいつもよりは大きい声で、わめくやうに鳴つた。困つたのは堅田かただ落雁らくがんで、幾度往つて見ても雁はそこらに見えなかつた。
みんなが喜んでるうちに、ひとり、堅田かただの顔長の長彦は、だんだん考えこんできました。しだいにお金に困ってきたのです。
長彦と丸彦 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
いま京都に家を持っているが、海北友松は、江州ごうしゅう堅田かただの人。つまり光秀の領する坂本城の近くに生まれた由縁ゆかりをもっている。
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
この家の三代前弥兵衛という御先祖さまが堅田かただから移したもんだ、二本柳から横橋までの五町が活け場になっている、その五町の上下にしるしを打って
蜆谷 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
人里の夜の燈火のむれがどんなに此の山の上からは心を惹くか知れない。そこは八景の一つに數へられてゐる堅田かただの町であつた。堅田の町、秋ならば雁の降りる處。
湖光島影:琵琶湖めぐり (旧字旧仮名) / 近松秋江(著)
後にわかったのは、薬研堀やげんぼりにいたひとは、日本橋区堀留ほりどめの、杉の森に住んでいた堅田かただという鳴物師なりものしの妹だった。今でも二絃琴の鳴物は、つづみの望月朴清ぼくせいの娘初子が総帥そうすいである。
農商務大臣と製鉄所長官の首を一度に絞めて、前内閣を引っくり返した堅田かただ検事総長から、懐刀ふところがたなと頼まれている斎木検事正のお耳に、この話が這入はいったとなると問題だろう。
爆弾太平記 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
唐崎からさきはあの辺かなど思えど身地を踏みし事なければ堅田かただも石山も粟津あわづもすべて判らず。
東上記 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
高い比良の山影がうつるふかい水底にもぐろうとするが、身をかくすこともむつかしく、夜ともなれば堅田かただ漁火いさりびにひとりでにひきよせられて近寄って行くのも、まるで夢心地でした。
いつか都を離れて近江国堅田かただの浦まで来た時、大納言は泣くなくこう詠んだ。
水鳥の群の中を分け、一筋白い水脈みおを曳き。……そこで白拍子はうたいました。『鳥をわけて朝妻船も過ぎぬれば同じ水脈にぞまた帰りぬる』こうして堅田かただへ着きました。壺に涙が溜まりました。
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
十一月六日 近江おうみ堅田かただ、中井余花朗邸宿泊。
六百五十句 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
鞍馬くらまの夜叉王は、鞍馬山のおくにいるぞくのかしらでした。堅田かただ観音様かんのんさまの像のことをきいて、悪いことをたくらみました。
長彦と丸彦 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
これは堅田かただから石山あたりに、いまなお蠢動しゅんどうしている僧門内の、反信長勢力を駆逐くちくし、途中の諸処に構築中の木戸防寨ぼうさいなどを撃砕げきさいしてゆくものだった。
新書太閤記:04 第四分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
とにかく堅田かただ野洲やす川河口の長沙以南の湖畔の景致は産業文明のために夥しく損傷されて、昔の詩人騷客を悦ばしめた風景の跡は徒に過去の夢となつてしまつてゐる。水も底が泥で汚く濁つてゐる。
湖光島影:琵琶湖めぐり (旧字旧仮名) / 近松秋江(著)
兎も角も先道連みちづれに成申さんとて是より彼の男と同道どうだうして行程に彼旅人は旅馴たびなれたる者と見えて此邊の名所々々知らざる處もなく此處こゝに見ゆるが比良ひらの高嶺彼處が三井寺堅田かただ石山などと案内者の如くをしふるにぞ友次郎夫婦は我知われしらず面白き事に思ひ猶樣々に此處はなに彼處かしこ
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
むかし、近江おうみの国、琵琶湖びわこの西のほとりの堅田かただに、ものもちの家がありまして、そこに、ふたりの兄弟がいました。
長彦と丸彦 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
そして、その返辞のように、堅田かただや石山方面の——京にはいる通路へ木戸や防寨ぼうさいを築いていたものである。
新書太閤記:04 第四分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
訊問じんもんによってわずかに彼が知り得たところによると、内蔵助利三は十三日山崎に敗れた後は子息の利光や三存みつよしとも別れ別れになり、江州ごうしゅう堅田かただの民家にひそんでいたところを捕えられたものである。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)