坐禅ざぜん)” の例文
旧字:坐禪
念仏によるか、坐禅ざぜんによるか、信心しんじんによるか、公案(坐禅)によるか、その行く道程みちは違っていても、到着すべきゴールは一つです。
般若心経講義 (新字新仮名) / 高神覚昇(著)
元は公卿くげの出ですが、子供の時から三要の手元に引取られて、坐禅ざぜん学問を勉強しながら、高貴の客があるときには接待の給仕に出ます。
鯉魚 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
たとえ聖の道に熟達しても、また凡俗の道の中に身を投じて、凡夫の事を現じ、そのすべてを機縁として教え導くのがほんとうの坐禅ざぜんである。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
戸をあけると、大河は坐禅ざぜんでも組んでいたかのように、背筋せすじをのばしてあぐらをかいていた。かれの前の机の上には、何一つのっていなかった。
次郎物語:05 第五部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
そんな気楽な身分だから坐禅ざぜんができるのか、あるいは坐禅をした結果そういう気楽な心になれるのか迷った。
(新字新仮名) / 夏目漱石(著)
いつでも、どこででも、独居していても人中でも、随意に坐禅ざぜん三昧さんまいに沈入するのが、一空さまなのだ。
巷説享保図絵 (新字新仮名) / 林不忘(著)
うわさによれば、坐忘ざぼう先生は常に坐禅ざぜんを組んだまま眠り続け、五十日に一度目をまされるだけだという。
悟浄出世 (新字新仮名) / 中島敦(著)
坐ったまま——あたかも坐禅ざぜんでもくんでいるようにである。こくりこくり、時々あたまを低く垂れる。
新書太閤記:04 第四分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
この狸は通称を団九郎と言い、眷属けんぞくでは名の知れた一匹であったそうな。ほどなく経文をそらんじて諷経ふうきょうに唱和し、また作法を覚えて朝夜の坐禅ざぜんに加わり、あえて三十棒を怖れなかった。
閑山 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
されど味のわろからぬままつくしけるに、半里ほど歩むとやがて腹痛むこと大方ならず、なみだうかべて道ばたの草をしとねにすれど、路上坐禅ざぜんを学ぶにもあらず、かえって跋提河ばだいが釈迦しゃかにちかし。
突貫紀行 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
すなわちその方法によって向う所を決しようと思ってそこに坐り込んで坐禅ざぜんを組んで我を忘れて居ったのですが、その時はどの位多くの時間を費やしたかも自分ながら分らなかったのでござります。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
坐禅ざぜんとまではむろん行きませんが、静坐程度のことなら、ここでもやっているんです。起床後きしょうごとか、就寝前しゅうしんまえとかに、ほんの二十分か、せいぜい三十分程度ですが。」
次郎物語:05 第五部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
氏が坐禅ざぜん公案こうあんが通らなくて師に強く言われて家へ帰って来た時の顔など、いまにも泣き出しそう小児こどもの様に悄気しょげかえったものです。以上不備ふびながら課せられた紙数をようやく埋めました。
かれは坐禅ざぜんを組むようにすわった。そして、さいごにもういちど蝙蝠こうもりが壁をすべってくるのを待ちかまえこんどは、口にじゅをとなえて、つーッと一本のほそい絹糸のような線をきだした。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
宗教と関聯かんれんして宗助は坐禅ざぜんという記憶を呼び起した。昔し京都にいた時分彼の級友に相国寺しょうこくじへ行って坐禅をするものがあった。当時彼はその迂濶うかつを笑っていた。「今の世に……」と思っていた。
(新字新仮名) / 夏目漱石(著)
第百五十四回 龍樹菩薩りゅうじゅぼさつ坐禅ざぜん巌窟がんくつ
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
おのずから、坐禅ざぜんをくむ。
黒田如水 (新字新仮名) / 吉川英治(著)