薙髪ちはつ)” の例文
旧字:薙髮
その後薙髪ちはつして素伝といい、多く小田荘郡上城にいた。文明三年宗祇に『古今集』の註解について口伝をした。これが古今伝授のはじまりである。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
そのため先年、病後の床あげをしおに、薙髪ちはつして入道となった。同日、佐々木高氏も「いささか君に殉じ奉る心で……」と、惜しげもなく髪をおろした。
私本太平記:01 あしかが帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
次は芸術家および芸術批評家である。芸術家としてここに挙ぐべきものは谷文晁たにぶんちょう一人いちにんに過ぎない。文晁、もと文朝に作る、通称は文五郎ぶんごろう薙髪ちはつして文阿弥ぶんあみといった。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
持豊は即ち薙髪ちはつして宗全と云う。性、剛腹頑陋がんろう、面長く顔赤き故を以て、世人これを赤入道と呼んだ。
応仁の乱 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
世事せいじ測る可からずといえども、薙髪ちはつしてきゅうを脱し、堕涙だるいして舟に上るの時、いずくんぞ茅店ぼうてんの茶後に深仇しんきゅう冥土めいどに入るを談ずるの今日あるを思わんや。あゝまた奇なりというべし。
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
のち、伊達だて少将忠宗ただむねつかえ、薙髪ちはつして蝙也と号す
松林蝙也 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
薙髪ちはつして行脚あんぎゃに出た姿も新聞社会面をにぎわした。
一世お鯉 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
此間に品が四十五歳の時、綱宗が薙髪ちはつし、品が四十八歳の時、初子が歿した。綱宗入道嘉心は此後二十五年の久しい年月を、品と二人で暮したと云つても大過なからう。
椙原品 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
しかし父官兵衛孝高よしたかが早くも薙髪ちはつして、その封土豊前ぶぜん十六万石の家督を譲っているので、長政は若くしてすでに一城のあるじであり、京大坂にあっては、錚々そうそうたる若手の武将だった。
剣の四君子:02 柳生石舟斎 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
播磨はりまの赤松家の一族に、椙原伊賀守賢盛すぎのはらいがのかみかたもりと云ふ人があつた。後に薙髪ちはつして宗伊そういと云つた人である。それが椙原を名告なのつたのは、住んでゐた播磨の土地の名に本づいたのである。
椙原品 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
平八郎の妾ゆう薙髪ちはつす。十二月五日邪宗門事件落着す。貢、きぬ、さの、外三人はりつけに処せらる。きぬ、さのはしかばねを磔す。是年宮脇いく生る。上田孝太郎入門す。木村司馬之助、横山文哉まじはりていす。
大塩平八郎 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
霊蘭は薙髪ちはつして医を業としてゐたが、万治元年に京都にうつり、伊勢大神宮に詣でて髪を束ねた。霊蘭に五子四女があつた。長子仁焉子元端は一に雲軒と号し、医を以て朝に仕へ、益寿院と称した。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)