蒲生氏郷がもううじさと)” の例文
蠅の事に就いて今挙げた片倉小十郎や伊達政宗に関聯かんれんして、天正十八年、陸奥むつ出羽でわの鎮護の大任を負わされた蒲生氏郷がもううじさとを中心とする。
蒲生氏郷 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
柴田、羽柴、丹羽にわ、滝川、と左右両座にわかれて向いあい、以下、池田勝入しょうにゅう、細川藤孝、筒井順慶、蒲生氏郷がもううじさと、蜂屋頼隆など居流れていた。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
猿面冠者さるめんかじゃが淀君を物にするには太閤にならなければならなかつたが、むろん太閤だつて蒲生氏郷がもううじさとの未亡人や千利休の娘にふられる、だから本当の限度はきりがない。
金銭無情 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
かの大友宗麟おおともそうりんのごとき、蒲生氏郷がもううじさとのごとき、あるいは伊達政宗だてまさむねのごとき、その使節をローマ府に遣わし、わが緑髪黒眸りょくはつこくぼうの人士は、すでに第十六世紀の終りにおいて
将来の日本:04 将来の日本 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
そしてついには会津あいづ百万石の大名となり、名将蒲生氏郷がもううじさとの名を長く歴史にのこしたのである。
蒲生鶴千代 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
奥州、蒲生氏郷がもううじさとの家中に、岡左内おかさないという武士があった。高禄で名望高く、勇名を東国一帯にとどろかしていた。ところが、この左内には、人とはちがったたいへんかたよった性質があった。
山窩の頭領多羅尾将監たらおしょうげん、先祖は蒲生氏郷がもううじさとの家臣、半弓にかけては手利きである。
任侠二刀流 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
「二十三日、羽津はねつに陣し、縄生なおうには、とりでを築き、蒲生氏郷がもううじさと蜂須賀家政はちすかいえまさなどに、それらの要所をかためさせては、刻々に前進をつづけて来ます」
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
天正年間においては、西海の諸侯大友、大村、有馬の徒、使を羅馬ローマつかわし、三年にして達し、八年にして帰るを得たり。蒲生氏郷がもううじさとの如きも、羅馬に使聘しへいを通じたる前後四回に及べり。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
日根野兄弟ひねのきょうだい長谷川秀一はせがわひでかずは、中軍につけ。しっぱらい(殿軍しんがりのこと)は、細川忠興ほそかわただおき蒲生氏郷がもううじさとのふたりがせよ」
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
浅野長吉ながよし、杉原家次いえつぐ、黒田官兵衛、細川忠興ただおき、高山右近長房ながふさ蒲生氏郷がもううじさと筒井順慶つついじゅんけい、羽柴秀長、堀尾茂助吉晴ほりおもすけよしはる、蜂須賀小六家政いえまさ、稲葉入道一鉄いってつ——など。
新書太閤記:10 第十分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
積善寺しゃくぜんじの砦へかかった細川忠興ほそかわただおき蒲生氏郷がもううじさとらの軍勢は、一日にして、そこを叩きつぶし、千石堀を攻めた秀吉のおい、秀次も、去年、長久手ながくての合戦にこうむった汚名を
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
田中ノ陣 堀秀政ほりひでまさ蒲生氏郷がもううじさと長谷川秀一はせがわひでかず、加藤光泰みつやす、細川忠興ただおきなど。(総数一万三千八百人)
新書太閤記:10 第十分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ここには、三法師付きの衆臣もい、蒲生氏郷がもううじさともいた。——関盛信、一致の父子も姫路から従って来た。山岡景隆かげたか、長谷川秀一ひでかず、多賀秀家といったような近国衆も詰合わせていた。
新書太閤記:09 第九分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
老獪ろうかい徳川家康に座を譲らせ、関白秀吉にさえはばかられ、奥州おうしゅう独眼龍政宗どくがんりゅうまさむねを、僻地へきちに封じこめた智謀雄略の風流武人、蒲生氏郷がもううじさとは、実にこの子だった。この鶴千代だったのである。
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
月の末近くには、神戸かんべ信孝、北畠信雄の一門もそろい、以下、柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽にわ長秀、細川藤孝ふじたか、池田信輝、筒井順慶、蒲生氏郷がもううじさと蜂屋頼隆はちやよりたかなど、あらかた到着していた。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
神戸信孝かんべのぶたかの手からは、蒲生氏郷がもううじさとを説かせ、丹羽長秀へ加担かたんの申し入れ、また、勝家自身としても、遠く東海の徳川家康へ音信して、それとなく家康の意中を打診してみるよう、昨今
新書太閤記:09 第九分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)