米沢よねざわ)” の例文
旧字:米澤
米沢よねざわを中心とした置賜おきたまの文化と、山形やまがたを中心とした村山むらやまの文化と、鶴岡つるおか酒田さかたを中心とした庄内しょうないの文化と、この三つの異る地域がそれぞれに栄えたために
手仕事の日本 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
師匠のもとへは米沢よねざわ町の沢田という袋物屋から種々いろいろ貿易向きの注文が来て、その方がなかなか多忙いそがしくなる。今までは仏様専門であったが、今は不思議なものを彫る。
そういえば、才識に経世に、米沢よねざわの宝といわれたこの人にも、めっきりとけてきた影がみえる。——いかに、事の内容が容易でないかを、その眉が、語っている。
無宿人国記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ままごとの地方名としては米沢よねざわでもオフルマエゴト、伊豆いずの半島でもフルミヤッコ、遠く飛び離れて肥前の小値賀島おじかしままで、ホンミヤナンドという語が行なわれている。
こども風土記 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
羽州うしゅう米沢よねざわの典薬勝成裕かつせいゆうが、御隠居上杉鷹山うえすぎようざん侯(治憲はるのり)の内意を受けて、一行十五人、深山幽谷に薬草を採りに分け入るという、その時代としては珍らしい計画が立てられた。
壁の眼の怪 (新字新仮名) / 江見水蔭(著)
山形から弘前に往く順路は、小坂峠こざかとうげえて仙台にるのである。五百らの一行は仙台を避けて、板谷峠いたやとうげを踰えて米沢よねざわることになった。しかしこの道筋も安全ではなかった。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
……春とはいってもまだ二月はじめの夜はひどくてていた、米沢よねざわはまわりを山にかこまれていて冬がながい、城下町には汚なく溶けのこった残雪があり、昼はむやみにぬかる道が
日本婦道記:不断草 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
「いやどうもとんだ御手数ごてかずで」と主人は眼尻めじりしわを寄せながら礼を述べた。米沢よねざわかすりを着たひざを板の間に突いて、宗助からいろいろ様子を聞いている態度が、いかにもゆっくりしていた。
(新字新仮名) / 夏目漱石(著)
あの古い外套とんびかたに置いて、桜木の入口を出たが、それでも、其れも着ていれば目に立たぬが、下には、あの、もう袖口も何処も切れた、剥げちょろけの古い米沢よねざわ琉球の羽織に、着物は例の
別れたる妻に送る手紙 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
場所は米沢よねざわ市に近い。詳しくは南置賜みなみおきたま広幡ひろはた村にある。どの系統の窯か歴史はつまびらかでないが、作風からすると本郷の窯と兄弟である。作るものや名称に似通った点が多い。
現在の日本民窯 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
羽前うぜん米沢よねざわあたりはタンポポに近い花の名が別にあって、わかい葉を食料にする場合ばかり、クジナという語を用いるのである。越後でもグズナは野菜としての蒲公英の名であった。
米沢よねざわの城主上杉うえすぎ弾正大弼だんじょうのだいひつ斉憲なりのりがこれを幕府に献じた。こまかに検すれば南宋『乾道淳煕けんどうじゅんき』中の補刻数葉が交っているが、大体は北宋の旧面目きゅうめんぼくを存している。多紀氏はこれをも私費を以て刻せようとした。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
山形県のオバコは今日は未婚の女のことだが、米沢よねざわ地方ではままごとをオバコダチ、中国地方のオバサンは他家の婦人のことなのに、但馬たじまではこの遊びをオバサンゴトと呼んでる。
こども風土記 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
奥州では南部の沼宮内ぬまくない、陸前の気仙けせん郡、羽後の飽海あくみ郡などの数カ所だけであって、その他は陸中の上閉伊かみへい江刺えさしの二郡、羽前の米沢よねざわ、南秋田の半島、および信州の下水内しもみのち郡において
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)