猿若町さるわかちょう)” の例文
「不景気、不景気でも、芝居しばいばかりは大入りですね。春の狂言なぞはどこもいっぱい。どれ——青山さんに、猿若町さるわかちょう番付ばんづけをお目にかけて。」
夜明け前:02 第一部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
中央に芝居小屋などのあるのはもってのほかのこと、御趣意にそむくというわけで、浅草猿若町さるわかちょうへ転地させられた。
朱絃舎浜子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
母がまだ娘であった時分このへんから猿若町さるわかちょうの芝居見物に行くには、猪牙船ちょきぶね重詰じゅうづめの食事まで用意して、堀割から堀割をつたわって行ったとかいわれた話をば
銀座 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
あの、河原崎座の小屋は、御存じの通り猿若町さるわかちょうの表通りにございまして、裏は細い通りになっております。
京鹿子娘道成寺 (新字新仮名) / 酒井嘉七(著)
花川戸の山の宿から逆に後に戻って馬道へ出ようという間に猿若町さるわかちょうがある。此所に三芝居が揃っていた。
髪結かみゆいやら、河岸かしの者に、噂を探らせてみると、あきれた淫婦あまだ、沢村田之助に入れあげて、猿若町さるわかちょうがハネると、代地だいち八重桐やえぎりへ引き入れて、いい気になっているという話だが
松のや露八 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
江戸の十八大通じゅうはちだいつうの話だとか、天保年度の水野越前守えちぜんのかみの改革だとか、浅草の猿若町さるわかちょうの芝居の話だとか、昔の浅草観音の繁昌はんじょうだとか、両国の広小路に出た奇抜な見世物の話だとか
ある恋の話 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
しばらく二三の消息を注すれば、先ず天保十四年に河原崎座が、先に移った中村、市村両座と共に猿若町さるわかちょうに移って、勝諺蔵が立作者柴晋助しばしんすけとなった。芝宇田川町にいたからである。
細木香以 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
もっとも幼少の頃は沢村田之助とか訥升とっしょうとかいう名をしばしば耳にした事を覚えている。それから猿若町さるわかちょうに芝居小屋がたくさんあったかのように、何となく夢ながら承知している。
彼は日ごろ敬慕する鉄胤かねたねから、以来懇意にするように、学事にも出精するようにと言われて帰って来たが、その間に寿平次は猿若町さるわかちょうの芝居見物などに出かけて行った。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
道楽で、猿若町さるわかちょうの芝居の囃子はやし部屋にもいたりしたから、あの楽器へ、長唄同様な囃子をつけた。
明治三年猿若町さるわかちょうのおきぬといふ女金貸の旦那をこの毒薬にて殺せし事ありてより、石見銀山の名久しく人の口にいひ伝へられしが世は変りてその名もまたいつか異りたり。
桑中喜語 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
その頃の芝居小屋はみんな猿若町さるわかちょうにあった。電車もくるまもない時分に、高田の馬場の下から浅草の観音様の先まで朝早く行き着こうと云うのだから、たいていの事ではなかったらしい。
硝子戸の中 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
長尾のむすめ敬の夫三河屋力蔵の開いていた猿若町さるわかちょう引手茶屋ひきてぢゃやは、この年十月に新富町しんとみちょううつった。守田勘弥もりたかんやの守田座が二月に府庁の許可を得て、十月に開演することになったからである。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
その折、市村座の座主がお園に目をつけ説きすすめて、芸の人として立たせる第一歩の導きをしたのである。お園は竹本玉之助となり、浅草猿若町さるわかちょうの文楽座に現われることになった。
竹本綾之助 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
初め長女敬が母と共に坐食するに忍びぬといって、なかだちするもののあるに任せて、猿若町さるわかちょう三丁目守田座附もりたざつきの茶屋三河屋力蔵みかわやりきぞうに嫁し、次で次女せんも浅草須賀町すがちょうの呉服商桝屋儀兵衛ますやぎへえに嫁した。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
早くから船は来て(浅草猿若町さるわかちょうにあった三座の芝居へは多く屋根船ふねか、駕籠かごでいったものである)、炬燵こたつを入れ、縮緬ちりめんの大座布団を、御隠居さんの分、隠居さんの分、御新造さんの分と三枚運ぶ。
それから猿若町さるわかちょうを通って、橋場のわたしを渡って、向島のお邸に帰った。
ヰタ・セクスアリス (新字新仮名) / 森鴎外(著)