叡覧えいらん)” の例文
旧字:叡覽
……おん輿こしの内ゆえ、ふとお気づきにならず過ぎるおそれもありますが、そこは自分がふと知ったていにして、叡覧えいらんに供えるように計ります。
私本太平記:05 世の辻の帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
撰者は宗良親王、弘和元年十二月三日長慶天皇の叡覧えいらんにそなえた。全部二十巻。叡覧に供える前、弘和元年十月、勅撰集に擬せられる旨の綸旨りんじを賜わった。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
帝としては地方をめぐらせたもう最初の時でもなかったが、これまで信濃しなのの国の山々も親しくは叡覧えいらんのなかったのに、初めて木曾川の流るるのを御覧になったら
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
叡覧えいらんに供えるというほどのことではなく、お通りすがりの興におさせになったのである。
源氏物語:33 藤のうら葉 (新字新仮名) / 紫式部(著)
次は大正七年文展会場で、藤原時代の紅葉狩の風俗を描き、叡覧えいらんに供しました。
とりあえず、福厳寺に入り、庭上の二使から正式に新田の羽書うしょ(軍の急便)の捧呈をうけた。そして公卿はこれをすぐ、叡覧えいらんにいれたのだった。
それまで大山大川なぞも親しくは叡覧えいらんのなかったのに、初めて淀川よどがわ滔々とうとうと流るるのを御覧になって、さまざまのことをおぼし召され、外夷がいい親征なぞの御艱難ごかんなんはいうまでもなく
夜明け前:02 第一部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
翠竹院の号はその折、叡覧えいらんの光栄に浴したうえ、彼の本邦医学に寄与した功労をよみしたもうて、朝廷から下賜かしあらせられたものとか、都の人々も聞いている。
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その方儀、憂国の過慮より、自作の和歌一首録し置きたる扇面を行幸の途上において叡覧えいらんに備わらんことを欲し、みだりに供奉ぐぶの乗車と誤認し、投進せしに、ぎょ車駕しゃがに触る。
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
七月十三日、秀吉は、拝命の御礼として、南殿なんでん猿楽さるがくを催し、叡覧えいらんに供えんと称して、天皇、皇子、五摂家ごせっけ清華せいか、その他の公卿、諸大夫たゆう、諸侍までを、こぞって招待した。
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
勅使は、綸言りんげんを伝えていう。今日の事、叡覧えいらんあって龍顔りゅうがん殊のほか御うるわしく、上古末代の見もの、本朝のみか、異国にもかほどのさまはあるべからずとのたまわせ、斜めならぬ御気色みけしきに仰がれた。
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
この鞠ぬすみは伊賀流いがりゅう甲賀流こうがりゅうのものが、かつて信長のぶなが在世ざいせい当時、安土城あづちじょうで試合をしたこともあるし、それよりいぜんには、仙洞御所せんとうごしょのお庭さきで月卿雲客げっけいうんかくの前で、叡覧えいらんきょうしたこともあって
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「聖旨に添い奉りますや否や、いちど叡覧えいらん給わりましょうか」
私本太平記:02 婆娑羅帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)