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叡覧
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えいらん
ふりがな文庫
“
叡覧
(
えいらん
)” の例文
旧字:
叡覽
……おん
輿
(
こし
)
の内ゆえ、ふとお気づきにならず過ぎる
惧
(
おそ
)
れもありますが、そこは自分がふと知った
態
(
てい
)
にして、
叡覧
(
えいらん
)
に供えるように計ります。
私本太平記:05 世の辻の帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
撰者は宗良親王、弘和元年十二月三日長慶天皇の
叡覧
(
えいらん
)
にそなえた。全部二十巻。叡覧に供える前、弘和元年十月、勅撰集に擬せられる旨の
綸旨
(
りんじ
)
を賜わった。
中世の文学伝統
(新字新仮名)
/
風巻景次郎
(著)
帝としては地方を
巡
(
めぐ
)
らせたもう最初の時でもなかったが、これまで
信濃
(
しなの
)
の国の山々も親しくは
叡覧
(
えいらん
)
のなかったのに、初めて木曾川の流るるのを御覧になったら
夜明け前:04 第二部下
(新字新仮名)
/
島崎藤村
(著)
叡覧
(
えいらん
)
に供えるというほどのことではなく、お通りすがりの興におさせになったのである。
源氏物語:33 藤のうら葉
(新字新仮名)
/
紫式部
(著)
次は大正七年文展会場で、藤原時代の紅葉狩の風俗を描き、
叡覧
(
えいらん
)
に供しました。
画筆に生きる五十年:――皇太后陛下御下命画に二十一年間の精進をこめて上納――
(新字新仮名)
/
上村松園
(著)
▼ もっと見る
とりあえず、福厳寺に入り、庭上の二使から正式に新田の
羽書
(
うしょ
)
(軍の急便)の捧呈をうけた。そして公卿はこれをすぐ、
叡覧
(
えいらん
)
にいれたのだった。
私本太平記:09 建武らくがき帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
それまで大山大川なぞも親しくは
叡覧
(
えいらん
)
のなかったのに、初めて
淀川
(
よどがわ
)
の
滔々
(
とうとう
)
と流るるのを御覧になって、さまざまのことを
思
(
おぼ
)
し召され、
外夷
(
がいい
)
親征なぞの
御艱難
(
ごかんなん
)
はいうまでもなく
夜明け前:02 第一部下
(新字新仮名)
/
島崎藤村
(著)
翠竹院の号はその折、
叡覧
(
えいらん
)
の光栄に浴したうえ、彼の本邦医学に寄与した功労を
嘉
(
よみ
)
したもうて、朝廷から
下賜
(
かし
)
あらせられたものとか、都の人々も聞いている。
新書太閤記:07 第七分冊
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
その方儀、憂国の過慮より、自作の和歌一首録し置きたる扇面を行幸の途上において
叡覧
(
えいらん
)
に備わらんことを欲し、みだりに
供奉
(
ぐぶ
)
の乗車と誤認し、投進せしに、
御
(
ぎょ
)
の
車駕
(
しゃが
)
に触る。
夜明け前:04 第二部下
(新字新仮名)
/
島崎藤村
(著)
七月十三日、秀吉は、拝命の御礼として、
南殿
(
なんでん
)
に
猿楽
(
さるがく
)
を催し、
叡覧
(
えいらん
)
に供えんと称して、天皇、皇子、
五摂家
(
ごせっけ
)
、
清華
(
せいか
)
、その他の公卿、諸
大夫
(
たゆう
)
、諸侍までを、こぞって招待した。
新書太閤記:11 第十一分冊
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
勅使は、
綸言
(
りんげん
)
を伝えていう。今日の事、
叡覧
(
えいらん
)
あって
龍顔
(
りゅうがん
)
殊のほか御うるわしく、上古末代の見もの、本朝のみか、異国にもかほどのさまはあるべからずと
宣
(
のたま
)
わせ、斜めならぬ
御気色
(
みけしき
)
に仰がれた。
新書太閤記:06 第六分冊
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
この鞠ぬすみは
伊賀流
(
いがりゅう
)
と
甲賀流
(
こうがりゅう
)
のものが、かつて
信長
(
のぶなが
)
の
在世
(
ざいせい
)
当時、
安土城
(
あづちじょう
)
で試合をしたこともあるし、それよりいぜんには、
仙洞御所
(
せんとうごしょ
)
のお庭さきで
月卿雲客
(
げっけいうんかく
)
の前で、
叡覧
(
えいらん
)
に
供
(
きょう
)
したこともあって
神州天馬侠
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
「聖旨に添い奉りますや否や、いちど
叡覧
(
えいらん
)
給わりましょうか」
私本太平記:02 婆娑羅帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
“叡覧”の意味
《名詞》
叡 覧 (えいらん)
天子や上皇、法皇などが御覧になること。
(出典:Wiktionary)
叡
漢検準1級
部首:⼜
16画
覧
常用漢字
小6
部首:⾒
17画
“叡”で始まる語句
叡山
叡智
叡慮
叡知
叡聞
叡旨
叡感
叡
叡山道
叡帝