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仁徳天皇
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にんとくてんのう
ふりがな文庫
“
仁徳天皇
(
にんとくてんのう
)” の例文
仁徳天皇
(
にんとくてんのう
)
には
皇子
(
おうじ
)
が五人、
皇女
(
おうじょ
)
が一人おありになりました。その中で
伊邪本別
(
いざほわけ
)
、
水歯別
(
みずはわけ
)
、
若子宿禰
(
わくごのすくね
)
のお
三方
(
さんかた
)
がつぎつぎに天皇のお位におのぼりになりました。
古事記物語
(新字新仮名)
/
鈴木三重吉
(著)
いくらか、さうしたものゝ
見
(
み
)
えるのは、
或時
(
あるとき
)
仁徳天皇
(
にんとくてんのう
)
が、
吉備
(
きび
)
のくろ
媛
(
ひめ
)
といふ
人
(
ひと
)
を
訪問
(
ほうもん
)
せられたところが、
青菜
(
あをな
)
を
摘
(
つ
)
んでゐたのを
見
(
み
)
て
作
(
つく
)
られたといふお
歌
(
うた
)
であります。
歌の話
(旧字旧仮名)
/
折口信夫
(著)
始
(
はじ
)
めて
河内
(
かはち
)
の
南方
(
なんぽう
)
に
御陵
(
ごりよう
)
がつくられ、
次
(
つ
)
ぎの
仁徳天皇
(
にんとくてんのう
)
から
三代
(
さんだい
)
ばかりは、
昔
(
むかし
)
は
河内
(
かはち
)
の
國
(
くに
)
であつたが
今
(
いま
)
の
和泉
(
いづみ
)
の
國
(
くに
)
の
北方
(
ほつぽう
)
、
堺
(
さかひ
)
の
附近
(
ふきん
)
に
御陵
(
ごりよう
)
が
設
(
まう
)
けられることになりました。
博物館
(旧字旧仮名)
/
浜田青陵
(著)
仁徳天皇
(
にんとくてんのう
)
はお位におのぼりになりますと、
難波
(
なにわ
)
の
高津
(
たかつ
)
の
宮
(
みや
)
を皇居にお定めになり、
葛城
(
かつらぎ
)
の
曽都彦
(
そつひこ
)
という人の
娘
(
むすめ
)
の
岩野媛
(
いわのひめ
)
という方を改めて皇后にお立てになりました。
古事記物語
(新字新仮名)
/
鈴木三重吉
(著)
ところがこの
應神
(
おうじん
)
、
仁徳兩天皇
(
にんとくりようてんのう
)
の
御陵
(
ごりよう
)
は、
日本
(
につぽん
)
の
御陵中
(
ごりようちゆう
)
でも
一番
(
いちばん
)
大
(
おほ
)
きい
立派
(
りつぱ
)
な
前方後圓
(
ぜんぽうこうえん
)
の
塚
(
つか
)
と
申
(
まを
)
すべきで、なかにも
仁徳天皇
(
にんとくてんのう
)
の
御陵
(
ごりよう
)
の
周圍
(
しゆうい
)
は
約半里
(
やくはんり
)
くらゐもあり、
世界中
(
せかいじゆう
)
にかような
大
(
おほ
)
きな
古墳
(
こふん
)
は
博物館
(旧字旧仮名)
/
浜田青陵
(著)
▼ もっと見る
後の代から
仁徳天皇
(
にんとくてんのう
)
とお
呼
(
よ
)
び申すのがすなわちこの天皇でいらっしゃいます。
古事記物語
(新字新仮名)
/
鈴木三重吉
(著)
仁徳天皇
(
にんとくてんのう
)
の
御陵
(
ごりよう
)
と、
應神天皇
(
おうじんてんのう
)
の
御陵
(
ごりよう
)
とは、その
大
(
おほ
)
きさが
優
(
すぐ
)
れてゐるばかりでなく、
歴史上
(
れきしじよう
)
から
見
(
み
)
ても
最
(
もつと
)
もたしかなもので、これが
標準
(
ひようじゆん
)
になつてわれ/\は、その
頃
(
ころ
)
日本
(
につぽん
)
に
前方後圓
(
ぜんぽうこうえん
)
の
塚
(
つか
)
が
盛
(
さか
)
んに
行
(
おこな
)
はれ
博物館
(旧字旧仮名)
/
浜田青陵
(著)
“仁徳天皇”の解説
仁徳天皇(にんとくてんのう、仁德天皇、神功皇后摂政57年 - 427年?〈仁徳天皇87年1月16日〉)は、日本の第16代天皇。『日本書紀』での名は大鷦鷯天皇。実在したとすれば4世紀末から5世紀前半に在位したと推定されている。その業績から聖帝(ひじりのみかど)とも称される。
(出典:Wikipedia)
仁
常用漢字
小6
部首:⼈
4画
徳
常用漢字
小4
部首:⼻
14画
天
常用漢字
小1
部首:⼤
4画
皇
常用漢字
小6
部首:⽩
9画
“仁徳”で始まる語句
仁徳
仁徳兩天皇