顕家あきいえ)” の例文
やがて賜酒ししゅが終ると、正行はすぐ退がった。しかしその後ろ姿もどこか弱々と見えて、みかどはひそかに、顕家あきいえには似ぬ者と、傷々いたいたしく思われた。
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
正成つとに戦死し、続いて北畠顕家あきいえは和泉に、新田義貞は北陸に陣歿し、今や南朝は落漠として悲風吹きすさび、ひたすら、新人物の登場を待って居た。
四条畷の戦 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
雅家まさいえ北畠きたばたけと号す——北畠親房きたばたけちかふさその子顕家あきいえ顕信あきのぶ顕能あきよしの三子と共に南朝なんちょう無二の忠臣ちゅうしん楠公なんこう父子と比肩ひけんすべきもの、神皇正統記じんのうしょうとうきあらわして皇国こうこくの正統をあきらかにす
ああ玉杯に花うけて (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
尊良親王・宗良親王・懐良やすなが親王・北畠親房きたばたけちかふさ・北畠顕家あきいえみなそうであった。だから京都の第宅ていたくに遊園を愉しむ生活に比べれば、すこぶる荒涼として、艱難かんなん辛苦のさまは想像に余りがある。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
行宮あんぐうの憂いは濃い。ただ望みは、奥州軍北畠顕家あきいえの援軍が、まに合うか、まに合わぬか、それただ一つでしかなかった。
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
顕家あきいえ親房ちかふさはほんのはだか身でもって奥州や伊勢や諸所方々でいくさを起こして負けては逃げ、逃げてはまた義兵を集め、一日だって休むひまもなく天子様のために働きましたよ
ああ玉杯に花うけて (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
陸羽の奥はまだ蝦夷地えぞちのままといってよい。乱妨らんぼう、反乱、同族の闘いなど、絶えまもない。——顕家あきいえは二年の在任ですっかり戦陣の起居に馴れた。
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
これを見た顕家あきいえの傷心はいうまでもなかった。彼が、宗良むねながと義良の両宮にお別れしたのもそのためではなかったか。
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
このかんに朝廷が、北畠顕家あきいえの奥州軍を、元の奥州へ返してしまったなどの安易感にこそ、より大きな落度がある。
私本太平記:11 筑紫帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
この日、辰市たつのいちの辺で、足利勢との小ゼリ合いがあっただけで、顕家あきいえ以下の長途の兵は、ここに奈良を占拠した。
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ここでそれの動きを見るには、どうしてもまず北畠顕家あきいえの人とその立場とに一章をいておかねばなるまい。
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
十七歳の少年北畠顕家あきいえは、ぶさ飾りの月毛に乗って、御所の郁芳門いくほうもんから奥羽の鎮守に赴任して行った。
後醍醐天皇は三十七歳の御壮年だし、楠木正行まさつらや北畠顕家あきいえなどは、まだ五、六歳の乳臭児にすぎない。
随筆 私本太平記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その補佐ほさには。顕家あきいえの父、北畠亜相あそう(親房)、結城宗広。——供には、冷泉少将家房、伊達だてノ蔵人行朝、三河前司ぜんじ親朝、そのほか数千の弓箭きゅうせんが、列の先もかすむばかり流れて行った。
それに、何といっても、敵は、伊勢の国司として、顕家あきいえ以来のふるい名族だ。——今の大納言具教だいなごんとものりという当主も、長袖ちょうしゅうの家の子とはあなどれぬ。衣冠を脱した甲冑かっちゅうの英雄だ。国中の名望もあるらしいし
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
次の日には、北畠顕家あきいえがおいとまいに参内していた。
私本太平記:11 筑紫帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)