遠吠とおぼえ)” の例文
時計を出して見ると十一時に近い。これは大変。うちではさぞ婆さんが犬の遠吠とおぼえを苦にしているだろうと思うと、一刻も早く帰りたくなる。
琴のそら音 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
五年ほど前の夏には避暑客でごったかえしていた片貝の銀座も、いまは電燈でんとう一つともっていない。まっくらである。犬の遠吠とおぼえも、へんにすごい。
正義と微笑 (新字新仮名) / 太宰治(著)
夜半よわの寝覚に、あるいはうつつに、遠吠とおぼえの犬の声もフト途絶ゆる時、都大路の空行くごとき、遥かなる女の、ものとも知らず叫ぶ声を聞く事あるように思うはいかに。
遠野の奇聞 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
ねつかぬ乳呑児ちのみごおどすたよりとなるをも知らず、今こそはおのれの天地なれといい顔に、犬の高き遠吠とおぼえを火の見やぐらに響かすとも知らず、すさまじき風の吹き来りて
一夜のうれい (新字新仮名) / 田山花袋(著)
私はいつか映画でオットセイの群棲ぐんせいを見たことがある。ひれのような手足でバタバタはねる恰好かっこうや、病牛の遠吠とおぼえのような声を思い出すうちに本当に嘔吐おうとをもよおして来た。
黒猫 (新字新仮名) / 島木健作(著)
不意をくらって倒れんばかりによろけた佐藤は、跡も見ずに耳を押えながら、猛獣の遠吠とおぼえを聞いたうさぎのように、前に行く二、三人の方に一目散にかけ出してその人々をたてに取った。
カインの末裔 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
はやくから文章を軽蔑けいべつする極端なる非文章論を主張し、かつて紅葉から文壇の野獣視されて、君の文章論はおおかみ遠吠とおぼえだとののしられた事があるくらい、文章上のアナーキストであったから
二葉亭余談 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
つくねんと立ちながら、ポソポソ話し合っていると、春寒はるさむの夜はヒッソリ更けて、犬の遠吠とおぼえ按摩あんまの笛、夜鳴よなきうどんに支那蕎麦しなそばのチャルメラ……ナニ、そんなのアないが、とにかく、深更である。
魔像:新版大岡政談 (新字新仮名) / 林不忘(著)
家ごとに盂蘭盆うらぼん送火おくりび物淋ものさびしい風の立初たちそめてより、道行く人の下駄げたの音夜廻りの拍子木犬の遠吠とおぼえまた夜蕎麦売よそばうりの呼声にもにわかに物の哀れの誘われる折から、わけても今年は御法度ごはっと厳しき浮世の秋
散柳窓夕栄 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
「まるで御話にも何もなりゃしない。ところで近頃僕の家の近辺で野良犬のらいぬ遠吠とおぼえをやり出したんだ。……」
琴のそら音 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
このあくびがまたくじら遠吠とおぼえのようにすこぶる変調をきわめた者であったが、それが一段落を告げると、主人はのそのそと着物をきかえて顔を洗いに風呂場へ出掛けて行った。
吾輩は猫である (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
「ええ、遠吠とおぼえで御座います。私が申し上げた通りに遊ばせば、こんな事にはならないで済んだんで御座いますのに、あなたが婆さんの迷信だなんて、あんまり人を馬鹿に遊ばすものですから……」
琴のそら音 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)