治承じしょう)” の例文
治承じしょう寿永じゅえいという風雲乱世は、つい昨日きのうのようであったが、今はもう鎌倉幕府という言葉さえ、民衆には新しいひびきがくなっている。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
おれがこの島へ流されたのは、治承じしょう元年七月の始じゃ。おれは一度も成親なりちかきょうと、天下なぞを計った覚えはない。
俊寛 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
治承じしょう四年の十月には、このあたりへ、源頼朝が召集した関八州のつわものくつわを並べて集まりました。新田義貞にったよしさだが鎌倉勢に夜うちをかけたのもここであります。
大菩薩峠:21 無明の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
治承じしょう三年の秋、平重盛が病にかかって世を去ったので、清盛入道はだれはばかることもなく、専横をきわめるようになり、後白河法皇をうらんで鳥羽離宮におしこめたてまつり
治承じしょう四年の八月に、八十九歳で衣笠城に自害した三浦大介義明おおすけよしあきという人の名も出て来た。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
……治承じしょう四年十月の候、源頼朝が府中の南、分倍河原ぶばいがわらに関八州の兵を、雲霞の如くに集めたが、その時の費用もその金であり、ずっと下って南北朝時代となり、元弘げんこう三年新田義貞卿が
剣侠 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
俊行より五世にして鷲津権太夫綱俊ごんのたいふつなとしなるものが治承じしょう四年に関東の軍に参加した。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
顕輔は久寿きゅうじゅ二年に六十六歳で世を去り、子の清輔も父が『詞花集』を撰んだので、自分も『続詞花しょくしか和歌集』を撰んだほどの人だが、勅撰の仰せを蒙ることなくて、治承じしょう元年に七十四歳で世を去った。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
あたれる歳次さいじ治承じしょう元年ひのととり、月の並びは十月とつき二月ふたつき、日の数、三百五十余カ日、吉日良辰りょうしんを選んで、かけまくも、かたじけなく、霊顕は日本一なる熊野ゆや三所権現、飛竜大薩埵ひりゅうだいさった教令きょうりょうのご神前に
治承じしょう二年九月二十三日のことである。
俊寛 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
鹿ししたに——ここの夏草を踏み、夏木立のこずえを仰ぐと、都の人は、すぐ治承じしょうのむかし——もう二十幾年か前になったころの悲痛な社会事件を、思い出さずにはいられなかった。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
わたしが鬼界が島に渡ったのは、治承じしょう三年五月の末、ある曇ったひる過ぎです。
俊寛 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
かつての承久ノ乱や、寿永じゅえい治承じしょうの大戦のさいでも、都の北山、嵯峨野さがののおくには、平家のきずなや権門をのがれ出た無髪の女性たちには、修羅の外なる寸土の寂地じゃくちがゆるされていたともいう。
私本太平記:02 婆娑羅帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「——治承じしょう四年」とつぶやいた。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「——治承じしょう四年八月十七日」
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
治承じしょう二年になった。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)