文久ぶんきゅう)” の例文
わたくしは当年七十八歳で、嘉永かえい三年戌歳いぬどしの生れでございますから、これからお話をする文久ぶんきゅう三年はわたくしが十四の年でございます。
蜘蛛の夢 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
このお爺さんこそ安政あんせいの末から万延まんえん文久ぶんきゅう元治がんじ、慶応へかけて江戸花川戸はなかわどで早耳の三次と謳われた捕物の名人であることがわかった。
過ぐる文久ぶんきゅう三年、旧暦四月に、彼が父の病をいのるためここへ参籠さんろうにやって来た日のことは、山里の梅が香と共にまた彼の胸に帰って来た。
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
このとしがくれて、文久ぶんきゅうがん(一八六一)ねんになると、諭吉ゆきちは、おなじ中津藩なかつはん上級士族じょうきゅうしぞく土岐太郎八ときたろはち次女じじょきんとけっこんしました。
祖父が病を押して江戸からお国へ帰る途中、近江おうみ土山つちやまで客死せられたのは、文久ぶんきゅう元年のことでした。長兄が生れる前年です。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
海保漁村の墓表に文久ぶんきゅう二年十月十八日に、六十七歳で歿したとしてあるから、抽斎の生れた文化二年にははじめて十歳である。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
そもそも日本の浮世絵がはじめて欧洲の社会一般の注意する処となりしは千八百六十二年(文久ぶんきゅう二年)万国博覧会の英京倫敦ロンドンに開かれたる時なり。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
砂糖のが文久ぶんきゅう一枚、白玉が二枚という価でした。まだ浅草橋には見附みつけがあって、人の立止るを許さない。
江戸か東京か (新字新仮名) / 淡島寒月(著)
文久ぶんきゅう元年の春であった、自然のすがたをそのまま写したように、世の中もまた激しい転変を迎えていた。
春いくたび (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
同じく小供の時分に浅草へ行くと必ず鳩に豆を買ってやった。豆は一皿が文久ぶんきゅう二つで、赤い土器かわらけ這入はいっていた。その土器かわらけが、色と云いおおきさと云いこの禿によく似ている。
吾輩は猫である (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
文久ぶんきゅう年代、新開地横浜村に移住してきた米人にジョン・ブウリーという男があった。
偉大なる夢 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
一人は秋田の人で、文久ぶんきゅう二年大槻磐渓おおつきばんけい先生の重刻になる『雪華図説』が送られて来た。もう一人は九州の人で『北越雪譜』の七冊ぞろいの大変保存のよい本が幸運にも手に入ったわけである。
語呂の論理 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
このようなさわがしさのなかで、緒方洪庵先生おがたこうあんせんせいが、急病きゅうびょうでなくなりました。それは、文久ぶんきゅう三(一八六三)ねんがつ十日とおかのことでした。
文久ぶんきゅう三年は当時の排外熱の絶頂に達した年である。かねてうわさのあった将軍家茂いえもち上洛じょうらくは、その声のさわがしいまっ最中に行なわれた。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
安永天明における物哀れにまで優しき風情は嘉永かえい文久ぶんきゅうにおける江戸の女には既に全く見ることを得ざるに至りぬ。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
わたくしは文久ぶんきゅう元年酉歳とりどしの生れでございますから、当年は六十五になります。江戸が瓦解がかいになりました明治元年が八つの年で、吉原の切解きりほどきが明治五年の十月、わたくしが十二の冬でございました。
青蛙堂鬼談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
前の年、文久ぶんきゅう二年の夏から秋へかけては、彼もまだ病床についていて、江戸から京都へ向けて木曾路きそじを通過した長州侯ちょうしゅうこうをこの宿場に迎えることもできなかったころだ。
夜明け前:02 第一部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
薗八節稽古本の板木はんぎ文久ぶんきゅう年間に彫ったものだ。お半は明治も三十年になってから後に生れた女だ。稽古本の書体がわからないのはその人の罪ではない。町に育った今の女は井戸を知らない。
雨瀟瀟 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
文久ぶんきゅう元年の二月には、半蔵とお民は本陣の裏に焼け残った土蔵のなかに暮らしていた。土蔵の前にさしかけを造り、板がこいをして、急ごしらえの下竈したへっついを置いたところには、下女が炊事をしていた。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)