手焙てあぶ)” の例文
主人八郎兵衛と番頭、度を失って挨拶も忘れたものか、蒼褪あおざめた顔色も空虚うつろに端近の唐金から手焙てあぶりを心もち押し出したばかり——。
丸行燈まるあんどんが一つ、赤あかと炭火のおこっている手焙てあぶりが二つ、さくらの脇に燗鍋かんなべをのせた火鉢があり、それには燗徳利かんどくりが二本はいっていた。
醜聞 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
私は悄然としながら、案内せられるままにそちらに通ると、座蒲団ざぶとんを持って来てすすめたり、手焙てあぶりに火を取り分けて出したりしながら
霜凍る宵 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
陶器の手焙てあぶりのことを、古い人は“びんけ”とよんだり、ただ“夜学”といったりした。夜学の友は、これにまさる物はない。
随筆 新平家 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その当時、大江戸に、粋で鳴った鶯春亭の、奥まった離れには、もう、主人あるじ役の長崎屋、古代杉の手焙てあぶりを控えて坐っている。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
行燈あんどんのすすけた灯が暗い部屋ににじみ出ていた。とこの間を背にして、座蒲団が置かれ、胴丸の手焙てあぶりにいけた炭火がいやに赤々と見えた。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
しずくの垂れる傘を小女こおんなの一人にわたすと、大きな体を田代のそばに割込ませ、すぐに小倉は手焙てあぶりのかげに置かれたしながきを手もとに引寄せた。
春泥 (新字新仮名) / 久保田万太郎(著)
玄関の横の八畳には通りにむかって窓があった。ここの畳へ座る人種は我々と違っていた。特別の机が配置してあって、手焙てあぶりが冬は各自めいめいについている。
中に挟んだ手焙てあぶりが一つ、横から照す絹行灯に、知らない者には、わけある仲とも見えたでしょう。
礫心中 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
胡座あぐらをかいた股の間へ手焙てあぶりをかゝへ込んで、それでも足らずにぢり/\とにじり出しながら
我等の一団と彼 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
浅草から帰ったのが七時半ごろ、貸家も何もみつからなかったが朝の憂鬱ゆううつをさばさばと払いおとした気持ちであった。私は年寄りの部屋で手焙てあぶりに火をおこして文字焼きの用意をした。
貸家探し (新字新仮名) / 林芙美子(著)
たんば老人はそう思ったが、けぶりにもみせず、半インチほどになったタバコのすい殻を、キセルの火皿に詰め、それを手焙てあぶりの火ですいつけた。
季節のない街 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
そんなことを思う傍らで、まだ移転ひっこしの日のつづきを思い出しているのだった。翌日に着いた泡鳴の荷物は、荷車に二台の書籍と、あとは夜着よぎと、鉄の手焙てあぶりだけだった。
遠藤(岩野)清子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
甲斐は頷いて、机の上から書いたものを取りあげ、行燈の火を移して、巧みに紙を動かしながら、手焙てあぶりの上で燃したうえ、それを灰の中へ、きれいにまぜてしまった。
正三郎と十太夫がいったときには、まだ時刻が早いのでひっそりしていた。大きな手焙てあぶり二つに、炭火をいっぱい盛って、障子はあけ放しのまま、雪を眺めながら飲みだした。
饒舌りすぎる (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
そこは四帖半の小部屋で、行燈が明るく、手焙てあぶりの側に中年増ちゅうどしまの女が一人坐ってい、千之助を見るとうしろへさがって手を突いた。千之助はあがって、刀を右に置きながら坐った。
五瓣の椿 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)