陸奥守むつのかみ)” の例文
そばには二個の大きな碑が建てられて、一方は太政だじょう大臣三条実美さんじょうさねとみ篆額てんがく斎藤竹堂さいとうちくどう撰文、一方は陸奥守むつのかみ藤原慶邦ふじわらよしくに篆額、大槻磐渓おおつきばんけい撰文とある。
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
王朝はすでに地方官が武力を用いてひろめはじめた時代になっていた。陸奥守むつのかみから常陸介ひたちのすけになった男の富などがそれである。
こんどの、尊氏討伐の大命が発せられたさい——あの去年十一月二十日のころ——朝廷ではそれと同時に、遠い地の陸奥守むつのかみ顕家へたいしても
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
亀千代ぎみは十一歳、そのとき将軍家から綱の字を賜わって綱基となのり、従四位下、左近衛権少将に任じられ、陸奥守むつのかみを兼ねることを許された。
徳川家康に向っても楯を突こうというほどの代物しろものだから、それ、今時、薩摩や長州がどうあろうとも、こっちは仙台陸奥守むつのかみだというはらが据わっている。
大菩薩峠:33 不破の関の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
親房ちかふさの第二子顕信あきのぶの子守親もりちか陸奥守むつのかみに任ぜらる……その孫武蔵むさしに住み相模さがみ扇ヶ谷おうぎがやつに転ず、上杉家うえすぎけつかう、上杉家うえすぎけほろぶるにおよびせいおうぎに改め後青木あおきに改む
ああ玉杯に花うけて (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
神田まではるばる帰る気がなくなって深川万年町まんねんちょうの松平陸奥守むつのかみの中間部屋へころがりこみ、その翌朝。
顎十郎捕物帳:24 蠑螈 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
天皇は、新田義貞をして西より、陸奥守むつのかみ北畠顕家あきいへをして東より、鎌倉を挟撃せしめ給うた。
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
北条も此方に対しては北条陸奥守むつのかみ氏輝が後藤基信によしみを通じて以来仲を好くしている
蒲生氏郷 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
その月半ば、私の父は陸奥守むつのかみに任ぜられて奥州へ御下りにならねばならなかった。
かげろうの日記 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
それからのちに陸奥守むつのかみの家内になって任国へ行っておりまして、上京しました時に、姫君は無事に御成長なさいましたとこちらへほのめかしてまいりましたのを、宮様がお聞きになりまして
源氏物語:51 宿り木 (新字新仮名) / 紫式部(著)
万治三年、陸奥守むつのかみ綱宗の逼塞から始まり、現在なお続いている、伊達家中の紛争の根は、その証書に記されている。
奥州仙台陸奥守むつのかみがお通りになるという千住せんじゅの方面から、中仙道の板橋あたりでも、お爺さんやお婆さんが、真面まがおになってその噂をしているほどに評判になりました。
大菩薩峠:20 禹門三級の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
鎌倉は源氏発祥はっしょうの地と申してもよい。——後冷泉院の御宇ぎょう安倍貞任さだとうを討ちしずめられた後、祖先源頼義朝臣あそんは、相模守となって鎌倉に居を構えられた。——長子の陸奥守むつのかみ義家朝臣もおられた。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「いちどは、さきの陸奥守むつのかみ逼塞ひっそくのお沙汰のあったとき、次は亀千代家督の礼に、献上の使者を勤めたとき、前後二度、大城たいじょうにおいて、おめどおり致しました」
名にし負う奥州仙台陸奥守むつのかみ六十八万石の御城下近いところであることによって、仙台の城下はおろか、塩釜、松島、金華山等の日本中に名だたる名所は、一通りこの機会に見ておこうと企てました。
大菩薩峠:33 不破の関の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
陸奥守むつのかみ(綱宗)さまが公儀より御逼塞ごひっそくに仰せつけられてから、家中かちゅうの者が幾派かに分れ、互いにその勢力をしのごうとしたり、疑心をいだきあったりして、ない火の煙を立てようとしている