洞院とういん)” の例文
光厳上皇はその日、持明院の八講会からのお還りの途中で、五条樋口の東ノ洞院とういんにさしかかられた頃は、はや日も暮れて、道は暗かった。
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
暗くなってから行列は動いて、二条から洞院とういん大路おおじを折れる所に二条の院はあるのであったから、源氏は身にしむ思いをしながら、さかきに歌をして送った。
源氏物語:10 榊 (新字新仮名) / 紫式部(著)
「おゆるされ。これは、五条西の洞院とういんのほとりに住むおきなでござる。」
道祖問答 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
この両日に炎上の仏刹ぶっさつ邸宅は、革堂、百万遍、雲文寺をはじめ、浄菩提寺、仏心寺、窪の寺、水落の寺、安居院の花の坊、あるいは洞院とういん殿、冷泉れいぜい中納言、猪熊いのくま殿など、おびただしいことでございましたが
雪の宿り (新字新仮名) / 神西清(著)
場所 西にし洞院とういん御坊。
出家とその弟子 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
後に、この妹の一人は、洞院とういんノ大納言の室に入り、もひとりの妹は、太政大臣公守きみもりの側室となった。——しかしそれはずっと後年のこと。
私本太平記:02 婆娑羅帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
この両日に炎上の仏刹ぶっさつ邸宅は、革堂、百万遍、雲文寺をはじめ、浄菩提寺、仏心寺、窪の寺、水落の寺、安居院の花の坊、あるひは洞院とういん殿、冷泉れいぜい中納言、猪熊いのくま殿など、おびただしいことでございましたが
雪の宿り (新字旧仮名) / 神西清(著)
侍座じざ洞院とういん公敏きんとしが、すぐ叱りに立ったと思うと、細殿の西のひさしでの出会いがしら、北畠具行きたばたけともゆきのすがたに、ハタとぶつかった。
私本太平記:04 帝獄帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
院のお住居は、三条西ノ洞院とういんにあったが、そこからおりおり——きまって夜、加茂をわたって、祇園ぎおんまで、おしのびになった。
六角の南、錦小路にしきこうじの北、洞院とういんの西、油小路の東、本能寺の四面両門はもう明智勢の甲冑かっちゅうと、先途せんどを争う寄せ声で埋まっていた。
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
すなわちその軍中には、皇太子恒良つねなが、親王尊良たかながのおふたりを奉じ、洞院とういん実世さねよ、同少将定世、三条泰季やすすえなども付きしたがい、総勢は約七千余騎。
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
俄な新手が補強され出したというわけは、先に、洞院とういん実世さねよを大将として、信濃へ入り、やがて義貞の本軍と会合すべき計画だった東山道軍の七千が
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その急使は、洞院とういん実夏さねなつがここへ臨んで勅をつたえた当夜の真夜中、すでに正成の或る密命をうけて、河内からみなみの遠くへ、馬をとばしていたのだった。
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
わけて坊門の清忠、洞院とういん実世さねよなどは、それのコチコチであった。——しかし後醍醐は、かならずしも、義貞の奏上だけにたよって御判断はくだしていない。
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
侍座には坊門ノ清忠、洞院とういんの公賢、近衛、三条など、上卿たちの顔も見える。そして、正成がそも、何を訴え出たのかと、彼ひとりへ視線をそそぎあっていた。
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それの大将には大智院ノ宮、弾正ノ尹宮いんのみや洞院とういんノ実世、二条ノ中将為冬など、公卿色がつよく、侍大将では、島津、江田、筑前の前司ぜんじら、二十余家の旗がみえる。
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
かねて天皇帷幄いあくの秘臣とにらまれていた大納言宣房、洞院とういん実世さねよ、侍従の中納言公明、烏丸からすま成輔なりすけなど、みなその自邸で寝込みをおそわれ、一網打尽に、捕縛された。
私本太平記:04 帝獄帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
洞院とういん実世さねよが主宰していたが、諸国の武士どもは、われもわれもと上表じょうひょうして、自分の功を言いつのり、かえって、ほんとに勲功のある者は、つつしんで身を矜持きょうじする風で
大納言公泰きみやす洞院とういん公敏きんとし、近衛経忠、参議ノ光顕みつあき、坊門ノ清忠、権中納言実世……。
私本太平記:02 婆娑羅帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
また、洞院とういん公敏きんとし万里小路藤房までのこうじふじふさのふたりは、下野しもつけへ。東宮ノ大進季房は常陸ひたち流し。
私本太平記:05 世の辻の帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
いん師賢もろかた、四条隆資たかすけ洞院とういん実世さねよ、伊達ノ三位さんみ遊雅ゆうが、平ノ成輔なりすけ、日野資朝すけとも
私本太平記:02 婆娑羅帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
新田義貞や、脇屋義助らは、なお越前の杣山そまやま城に拠って、健在とわかって来たのみでなく、洞院とういん実世さねよも力をあわせて、再起の兵を、全北陸にわたって呼びかけているとの報をえたので、みかどは
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
清盛は、家の子十七、八名をつれ、西ノ洞院とういん一条の北、大峰の辻に、まなこをそろえ、ときには、家人けにんを放免に仕立てて付近をさぐらせたり、往来人をあらためたりしていたが、これを聞くと、はっとした。
たしかに、六条洞院とういん遊女宿あそびやど。——盛遠に誘われて来た家である。