たの)” の例文
自分のような女性だったら、十分彼をたのしませるに違いないという、自身の美貌びぼうへの幻影が常に彼女の浮気心をあおりたてた。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
前の頃は寢牀ねどこへ入つて眠りつく前に、今夜もあすこへ行けるんだなと、ぼんやりたのしいあすこを考へながら、枕にしつかり頭を埋めたものだつた。
砂がき (旧字旧仮名) / 竹久夢二(著)
日なたのなかの彼らは永久に彼らのたのしみを見棄てない。壜のなかのやつも永久に登っては落ち、登っては落ちている。
冬の蠅 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
そういう真理は美しくたのしく又為めになり良いものでなくてはならぬ。之は真理のギリシア的観念だと云われている。
認識論とは何か (新字新仮名) / 戸坂潤(著)
額に冷めたく切れる眉の根をたのしみ、薄暮の蟹の如くに己れの肢体を嗜み磨いた。水流の音を聞いては、夜陰、蟷螂の装束をなして石橋の欄干を渡つた。
測量船拾遺 (新字旧仮名) / 三好達治(著)
仕事の魅力とか仕事への情熱とかいうたのしいていのものではない。修史という使命の自覚には違いないとしてもさらに昂然こうぜんとして自らをする自覚ではない。
李陵 (新字新仮名) / 中島敦(著)
二列に並んだ他の生徒達のやうに互に手と手をつないでたのしく語り合ふことは出來ず、辨當袋を背負つて彼は獨りちよこ/\と列の尻つぽに小走り乍らいて行く味氣なさはなかつた。
崖の下 (旧字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
ひとしれず 風が ふらここをたのしんでをり
独楽 (新字旧仮名) / 高祖保(著)
葉子の家がそれらの青年たちにとって、気のおけないたのしいサルンとなることも考えられないことではなかった。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
このような浅ましい身と成り果て、自信も自恃じじも失いつくしたのち、それでもなお世にながらえてこの仕事に従うということは、どう考えてもたのしいわけはなかった。
李陵 (新字新仮名) / 中島敦(著)
鋭い悲哀をやわらげ、ほかほかと心をたのします快感は、同時に重っ苦しい不快感である。この不快感は日光浴の済んだあとなんとも言えない虚無的な疲れで病人を打ち敗かしてしまう。
冬の蠅 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
そんな極楽なんか、まっぴらだ! たとえ、つらいことがあっても、またそれを忘れさせてくれる・堪えられぬたのしさのあるこの世がいちばんいいよ。少なくともおれにはね。
庸三は彼女とって、一回だけトロットを踊ってみた時、「たのしくない?」と彼女は言うのであったが、何の感じもおこらなかった庸三は、そういって彼をいたわっている彼女をうらやましく思った。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
俺はたまげてしまった。この世にかくも多くのたのしきことがあり、それをまた、かくも余すところなく味わっているやつがいようなどとは、考えもしなかったからである。
それだのに、其の新しい・きびしいものへの翹望は、何時か快い海軟風の中へと融け去つて、今は唯夢のやうな安逸と怠惰とだけが、ものうたのしく何の悔も無く、私を取り圍んでゐる。
それだのに、その新しい・きびしいものへの翹望ぎょうぼうは、いつか快い海軟風かいなんぷうの中へと融け去って、今はただ夢のような安逸と怠惰とだけが、ものうたのしく何の悔も無く、私を取り囲んでいる。
楽しげに銀鱗ぎんりんひるがえす魚族いろくずどもを見ては、何故なにゆえに我一人かくは心たのしまぬぞと思いびつつ、かれは毎日歩いた。途中でも、目ぼしい道人どうじん修験者しゅげんしゃの類は、あまさずその門をたたくことにしていた。
悟浄出世 (新字新仮名) / 中島敦(著)
三蔵法師の場合はどうか? あの病身と、ふせぐことを知らない弱さと、常に妖怪ようかいどもの迫害を受けている日々とをもってして、なお師父しふたのしげに生をうべなわれる。これはたいしたことではないか!
何か心たのしまず。
光と風と夢 (新字新仮名) / 中島敦(著)