安永あんえい)” の例文
安永あんえい二年十二月二十日の事で、空は雪催しで一体に曇り、日光おろしの風は身にみて寒い日、すると宗悦は何か考えて居りましたが
真景累ヶ淵 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
「そ、そうだ。う、う、おれの親父おやじが、う、う、まれたとしにできた、げな。お、お、親父おやじ安永あんえいの、う、う、うまれだ。」
ごんごろ鐘 (新字新仮名) / 新美南吉(著)
安永あんえい年間のことであった。伊勢大廟いせたいびょう内宮領ないぐうりょうから外宮領げくうりょうに至る裏道に、柿で名のある蓮台寺れんだいじと云う村があるが、其の村に澤田庄造さわだしょうぞうという人が住んでいた。
狸と俳人 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
一、古人の俳句を読まんとならば総じて元禄げんろく明和めいわ安永あんえい天明てんめいの俳書を可とす。就中なかんずく『俳諧七部集』『続七部集』『蕪村ぶそん七部集』『三傑集』など善し。
俳諧大要 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
宝暦現来集ほうれきげんらいしゅう』という書物を見ると、今から百六、七十年前の安永あんえい年間までは、朝々江戸の町を「お茶の子お茶の子」といって売りあるく商人があった。
母の手毬歌 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
こうして、この姦夫姦婦かんぷかんぷが、浅草田原町の旗本、中川三郎兵衛の家を出たのは、安永あんえい三年の秋の初めであった。
恩讐の彼方に (新字新仮名) / 菊池寛(著)
「性蓮院妙相日縁信女、父本皓、母渋江氏、安永あんえい六年丁酉ていゆう五月三日しす、享年十九、俗名千代、作臨終歌曰りんじゅううたをつくりていわく云々うんぬんとしてあるのは、登勢の生んだ本皓のむすめである。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
奥村政信鳥居清満きよみつら皆人物画の制作以外に、かかる浮絵の板下はんしたを描きたりしが、安永あんえい年代に至りて歌川豊春うたがわとよはるもっぱら遠景名所の図を描き出せしよりおおいに流行を極め
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
下は徒士かち、足軽、勘定下組の衆にまでそれぞれ扇子なぞを配ったのを見ても、安永あんえい年代のころにはまだこの選挙が行なわれ、したがって競争も激しかったことがわかる。
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
経ってみるとつきひほど早いものはなく、五年の星霜は夢のまにすぎて安永あんえい六年の秋を迎えた。
日本婦道記:不断草 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
噂によりますると安永あんえい年間、田沼主殿頭たぬまとのものかみ様の御代の頃、大変流行いたしまして、いまだに江戸じゃア流行はやっているそうな、献上箱の故智に慣い、八五郎細工の献上箱、持参いたしてござります。
剣侠 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
これが蕪村を中心とする安永あんえい天明てんめいの俳句界であります。(42)
俳句とはどんなものか (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
庄造の言葉が終ると狸は悄然しょうぜんとして出て往った。其の夜、庄造は親切な村人達にとられて息を引きとった。それは安永あんえい七年六月二十五日のことであった。
狸と俳人 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
その赦免状の三宅島に着きましたのは、天明てんめいの前年すなわ安永あんえい九年初夏の頃でございます。
後の業平文治 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
明和七年春信歿ぼっするやその門葉もんよう中より磯田湖龍斎いそだこりゅうさい出で安永あんえい年代の画風を代表せり。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
安永あんえいなんとかいてあるぜ。こりゃ安永年間あんえいねんかんにできたもんだ。」
ごんごろ鐘 (新字新仮名) / 新美南吉(著)
浮世絵はその錦絵にしきえなると絵本なるとを論ぜず共に著しき衰頽すいたいを示せり。時勢は最早もはや文政天保てんぽう以後の浮世絵師をして安永あんえい天明てんめい時代の如く悠然ゆうぜんとして制作に従事する事を許さざるに至れり。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)