喪失そうしつ)” の例文
といっても、男によって体に与えられた“うつつの喪失そうしつ”は逆に彼女を一瞬いっときのまにべつな女として生れかわらせていたともいえよう。
私本太平記:01 あしかが帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その他すべて今日の我々青年がもっている内訌ないこう的、自滅的傾向は、この理想喪失そうしつの悲しむべき状態をきわめて明瞭に語っている。
復一は精も根も一度に尽き果て、洞窟どうくつのように黒く深まる古池の傍にへたへたと身を崩折らせ、しばらく意識を喪失そうしつしていた。
金魚撩乱 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
……理性と云うものを完全に喪失そうしつしてしまってるんだ。あの精密な論理の秩序は、跡方もなく破滅してしまった!
なよたけ (新字新仮名) / 加藤道夫(著)
一郎も二郎も妙子も、父を失った悲歎に加うるに、この不可解事を見せつけられ、まるで思考力を喪失そうしつしたかの如く、茫然として為すすべを知らなかった。
魔術師 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
その瞬間に、彼は、今の今迄喪失そうしつしていた一切の過去の記憶を取り戻した。
英本土上陸戦の前夜 (新字新仮名) / 海野十三(著)
想うにここ半世紀の間に、産業の激しい動揺につれて、人間は美への本能をいたく喪失そうしつしてしまいました。伝統に頼る間は救われていますが、一度自らに立てば、もう方向は見失われてしまうのです。
民芸四十年 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
ちまたの人間はいうまでもない、都じゅうが日ごろの姿一切を喪失そうしつし——春を待つ——そんな年暮くれ景色など見たくとも見られなかった。
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
……「素朴そぼくな」人間の心を喪失そうしつしている。都の人達はみんな利己主義です。享楽きょうらく主義です。自分の利慾しか考えない。自分の享楽しか考えない。みんな自己本位の狭隘きょうあいなる世界に立籠たてこもっています。
なよたけ (新字新仮名) / 加藤道夫(著)
その都度つど、同苦の、みじかい言葉は、深く彼の本心にふれ、喪失そうしつした彼自身を、彼のうちに、呼びもどしていたところでもあった。
大岡越前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
戟の光を見ても、悍馬かんばのいななきを聞いても、その眼や耳は、おどろきを失っていた。恐怖する知覚さえ喪失そうしつしている飢民の群れだった。
三国志:04 草莽の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
兄弟が見えたら頭から叱るつもりであったことばも頼朝は、眼がしらににじみ出す熱いもののために、どこへやら喪失そうしつしていた。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
すべての感動を喪失そうしつして、木偶でくのような十数年を送って来た旗岡巡査の頬に眸に、眉に、筋肉に、火華のような烈しい感情のふるえが走った。
旗岡巡査 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
頭は剃りこぼちても、まだ遠藤盛遠の血は、こんなふうに深淵しんえんりゅうのごとき本性を喪失そうしつしていないのである。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
いや世の中の貧乏とか、艱苦かんくとか、精進とか、希望とかいうものまでをいつか心身から喪失そうしつしていた。
三国志:08 望蜀の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
気がついてみれば、破った筈の殻は、依然として空虚うつろの自分を包んでいる。あらゆる信念を喪失そうしつしかけて空蝉うつせみにも似た自分の影が、今宵もふわふわと暗い風の中を歩いている。
宮本武蔵:08 円明の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
伝右衛門は、詰所から起つ勇気も、口をきく気力も、喪失そうしつしてしまった。——同時に
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
官紀も、警察制度もすべての秩序も一日のまに喪失そうしつして、市街は混乱におちいった。
三国志:03 群星の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
平常は冷笑してた天譴てんけんとかいうことも、真剣に思い出されて、初めの元気を喪失そうしつしてしまったばかりでなく、寒々と峠のささむらを渡る夕風の中に、ぶるぶるっと心の底からおじけに似た戦慄をいだいた。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)