致仕ちし)” の例文
一時官吏となって岩手県に赴任したが須臾しゅゆにして致仕ちしした。以後今日にいたるまで幾十年、文豹は世の交を避け閑適かんてきの生涯を送っている。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
老齢六十五、何十年来藩政をみて、また天下の枢機すうきにも参じ、いま致仕ちしして、かんにあってもなお、かれはしみじみそうかこたずにはいられない。
梅里先生行状記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
村上源氏の久我家から分れた権大納言師重もろしげの子。すでに一度致仕ちししておったが、建武中興の後再び仕えて、従一位に昇り、北畠准后じゅごうといわれた。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
それからして父実隆の致仕ちしした永正三年までに、位は正四位上まで、官は右近衛権中将を経て蔵人頭となった。いま一息で公卿補任中の人となるのである。
五世弥五右衛門は鉄砲十挺頭まで勤めて、元文げんぶん四年に病死した。六世弥忠太は番方ばんかたを勤め、宝暦ほうれき六年に致仕ちしした。七世九郎次は番方を勤め、安永五年に致仕した。
興津弥五右衛門の遺書 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
尾張源敬公げんけいこうに仕え、門弟多く取り立てしうち、長屋六兵衛、杉山三右衛門、もっとも業にひいでましたよし——大坂両度の合戦にも、尾張公に従って出陣し、一旦致仕ちししさらに出で
八ヶ嶽の魔神 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
と言って、致仕ちしの左大臣に摂政を譲った。
源氏物語:14 澪標 (新字新仮名) / 紫式部(著)
義清は、その日、その足で、まっ直ぐに、鳥羽院へ来て、致仕ちしの旨を奏し、友輩ともばらに、別れもいわず、家へ帰ってしまった。
大沼次郎右衛門は杉井と号し、また槐蔭かいいんと号して茶技俳諧を善くした。嘉永元年家を弟又三郎に譲り、致仕ちしして後は富商の家に出入して茶技俳句を教えていた。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
元和げんな五年御当代光尚みつひさ公御誕生遊ばされ、御幼名六丸君ろくまるぎみと申候。景一は六丸君御附おつきと相成り候。元和げんな七年三斎公御致仕ちし遊ばされ候時、景一も剃髪ていはついたし、宗也そうや名告なのり候。
興津弥五右衛門の遺書 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
元禄げんろく庚午かうごの冬、しきりに骸骨がいこつを乞うて致仕ちしす。はじめ兄の子をやしなうて嗣となし、つひにこれを立て以てほうがしむ。
梅里先生行状記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
側面に刻した墓誌に「先生姓藤原、名典、字伯経、一名守諸、号竹渓、称次右衛門、尾張人、給仕幕府、中興大沼氏、晩致仕ちし、以文政十年丁亥ていがい十二月二十四日没、享年六十六。孝子基祐建。」
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
それがし致仕ちし候てより以来、当国船岡山ふなおかやま西麓さいろくに形ばかりなる草庵そうあんを営み罷在まかりあり候えども、先主人松向寺殿しょうこうじどの逝去せいきょ遊ばされて後、肥後国ひごのくに八代やつしろの城下を引払いたる興津おきつの一家は、同国隈本くまもとの城下に在住候えば
ために、水戸さまは致仕ちしし、身を西山におかくしになったものだ。そう伝える者もある。
梅里先生行状記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
允成ただしげ致仕ちしして、家督相続をしてから十九年、母岩田氏いわたうじぬいうしなってから十二年、父を失ってから四年になっている。三度目の妻岡西氏おかにしうじとくと長男恒善つねよし、長女いと、二男優善やすよしとが家族で、五人暮しである。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)