貞享じょうきょう)” の例文
西鶴は俳諧師で、三十八の歳延宝えんぽう八年の頃、一日に四千句詠じたことがある。貞享じょうきょう元年に二万三千五百句を一日一夜のうちによんだ。
明治十年前後 (新字新仮名) / 淡島寒月(著)
貞享じょうきょう三年板『諸国心中女』を見ると、巻四「命を掛けし浮橋」の条、京都の西郊に豊かに住む人の美妻が夫の仕う美少年と通じ
それから年々来るようになって、ある年は唐船三、四十そうを数え、ある年は蘭船らんせん四、五艘を数えたが、ついに貞享じょうきょう元禄げんろく年代の盛時に達した。
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
尤も長崎から上方かみがたに来たのはかなり古い時代で、西鶴の作にも軽焼の名が見えるから天和てんな貞享じょうきょう頃には最う上方じんに賞翫されていたものと見える。
貞享じょうきょう元年『冬の日』の撰集あり。芭蕉の『野ざらし紀行』あり。『野ざらし紀行』の句を見るはこの際最も必要なり。
古池の句の弁 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
この発令は、貞享じょうきょう四年正月であった。以後、この法律は、綱吉の死ぬまで、足かけ二十三年間解かれなかった。人間が畜類の下におかれた受難期である。
大岡越前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
依って剃髪して宗享と号し、後には寿聖院第三世の大禅師となり、貞享じょうきょう三年うるう三月八日を以て寂したと云う。
聞書抄:第二盲目物語 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
芭蕉には島流しの流人るにんの生活を、句にしたものの多いこともちょっと有名であるが、是なども貞享じょうきょう・元禄のこうが、殊に三宅みやけ八丈はちじょうを刑罰に利用した時代であり
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
矢場が魔窟まくつになったのは、天保てんぽう以後から明治にかけてのこと、貞享じょうきょう、元禄、享保——の頃は、なかなか品格の高い遊戯で、矢取女も後の矢場女のようなものではありません。
貞享じょうきょう四年に東山天皇ひがしやまてんのうの盛儀があってから、桂屋太郎兵衛の事を書いた高札こうさつの立った元文三年十一月二十三日の直前、同じ月の十九日に五十一年目に、桜町天皇さくらまちてんのうが挙行したもうまで
最後の一句 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
貞享じょうきょう元禄げんろく年間に、上方から江戸へ下って来た、三味線音楽家、杵屋一家の人々が、歌舞伎の伴奏に用いた上方唄が、いつしか、江戸前に変化し、その基礎をなしたことに疑いはない。
かの『金銀万能丸きんぎんまんのうがん』のごときは(後に『人鏡論』と改題され、さらに『金持重宝記かねもちちょうほうき』と改題さる、今は収めて『通俗経済文庫』にあり)、今をさる約二百三十年前、貞享じょうきょう四年に出版されたものだが
貧乏物語 (新字新仮名) / 河上肇(著)
「三王外記」の記す、この生類御憐愍令が、法律として、発令されたのは、貞享じょうきょう四年の正月であった。
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その頃っと或る会で落合った時、あたかも私が手に入れた貞享じょうきょうの江戸図の咄をすると、そんな珍本は集めないよ、僕のは安い本ばかりだと、暗に珍本無用論をにおわした。
鴎外博士の追憶 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
因ってついには富を重ね、故に金を以て鶏形一双を作り、山神を祭り、炭とともに土中に埋む、因ってそこを鶏坂という。これ貞享じょうきょう三年印本『藤太行状』というに載せたりと。
たちまち翕然きゅうぜんとして時代のふうをなすまでに、貞享じょうきょう元禄げんろくの俳感覚はき活きとしていた。
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
俳句の句法は貞享じょうきょう、元禄に定まりて享保、宝暦を経て少しも動かず。
俳人蕪村 (新字新仮名) / 正岡子規(著)
貞享じょうきょう元禄げんろく宝永ほうえい正徳しょうとく……」
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
俳句の句法は貞享じょうきょう、元禄に定まりて享保、宝暦を経て少しも動かず。
俳人蕪村 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
たとえば芭蕉ばしょう貞享じょうきょう四年の俳諧はいかい
海上の道 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
翌々貞享じょうきょう三年、芭蕉は未曾有みぞうの一句を得たり。
古池の句の弁 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)