稚拙ちせつ)” の例文
さうしてその十字架の上には、稚拙ちせつな受難の基督キリストが、高々と両腕をひろげながら、手ずれた浮き彫の輪廓を影のやうにぼんやり浮べてゐた。
南京の基督 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
うっかりけると、やぶれそうにまだれている墨色すみいろで、それは少年のふでらしく、まことに稚拙ちせつな走りがき。読みくだしてみると、その文言もんごんは——。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
まったく、現代いまで申せば、民芸とでもいうのでしょうか。稚拙ちせつがおもしろみの木彫りとしか、素人しろうとの眼にうつらない。
丹下左膳:02 こけ猿の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
あとでみた、写真には、ハアト形のなかに、おすましな田舎いなか女学校の三年生がいて、おまけに稚拙ちせつなサインがしてあるのが、いかにも可愛かわいく、ほほ笑んでしまった。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
ただ、酒ばかり呑むのである。私の態度は、稚拙ちせつであった。三十一にもなって、少しも可愛げが無くなっているのに、それでも、でれでれ甘えて、醜怪の極である。
善蔵を思う (新字新仮名) / 太宰治(著)
丹緑たんろくの絵で、奈良絵本がなくなった今日では、この扇が唯一の名残なごりでありましょう。稚拙ちせつな風がかえって雅致を誘います。どこかひんのよいしかも平易な美しさを示します。
手仕事の日本 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
それがひどく欠陥のある稚拙ちせつな彼の文章から、自分にそうした曖昧あいまいな印象を与えたものであろうと思われたが、それにしても「迂濶うかつに物は書けない……」自分は一種の感動から
死児を産む (新字新仮名) / 葛西善蔵(著)
「……そればかりではなく、あんな稚拙ちせつな感傷をぶちまけた自分の手紙が、どこかに保存されていると思うだけで、いまのあたしの感情ではとても耐えられないことなの。おわかりになる?」
キャラコさん:06 ぬすびと (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
稚拙ちせつな字で、翻訳文がしたためてある。
桜島 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
日ごろは琵琶びわの祖神蝉丸せみまる像のふくが見える板かべのとこには、それがはずされて、稚拙ちせつな地蔵菩薩像のふくがかけられ、下には一位牌いはいがおかれていた。
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
これは勿論もちろん詩と存じ候。殊に桜の花の「くみたて」などと申す言葉は稚拙ちせつの妙言ふべからず候。
伊東から (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
だがそれは畸形きけいではない。粗悪ではない。自然さがあり健康がある。疲れた粗野があろうか。ある者はこれを稚拙ちせつとも呼ぶであろう。だが稚拙は病いではない。それは新たに純一な美を添える。
工芸の道 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
「元より子どもらしい稚拙ちせつはあるが、稚拙のうちに、天真といおうか何というか……左様……剣でいうならば、おそろしく気にびのある筆だ。あれは、ものになるかもしれぬ」
宮本武蔵:03 水の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
中には、稚拙ちせつな文字と、天真爛漫てんしんらんまんな辞句で、自分の近況が書いてある。
黒田如水 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
あやしげな当字あてじや仮名まじりで、書風も至って稚拙ちせつであった。
新書太閤記:04 第四分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)