新銭座しんせんざ)” の例文
義塾三田に移る慶應義塾がしば新銭座しんせんざを去て三田のただ今の処にうつったのは明治四年、是れも塾の一大改革ですから一通り語りましょう。
福翁自伝:02 福翁自伝 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
土地の女学校を出た後、母は、その頃芝の新銭座しんせんざにいた国学者でまた南洋学の先覚、近藤真琴の家庭へしばらくやられていた。
○予が父は初め新銭座しんせんざの福沢塾にて洋学を修め明治四年亜墨利加アメリカに留学し帰朝の後官員となりし人にて、一時はなかなかの西洋崇拝家なりけり。
洋服論 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
慶応義塾けいおうぎじゅくは、こんなふうに、民主的みんしゅてきなふんいきをもっていました。そうして、明治めいじ四(一八七一)ねんに、慶応義塾けいおうぎじゅくは、新銭座しんせんざから三田みたへうつりました。
引続きまして、梅若七兵衞うめわかしちべえと申す古いお話を一席申上げます。えゝ此の梅若七兵衞という人は、能役者の内狂言師でございまして、しば新銭座しんせんざに居りました。
梅若七兵衛 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
予が新銭座しんせんざたくと先生のじゅくとは咫尺しせきにして、先生毎日のごとく出入しゅつにゅうせられ何事も打明うちあけ談ずるうち、つね幕政ばくせい敗頽はいたいたんじける。もなく先生は幕府外国方翻訳御用がいこくかたほんやくごよう出役しゅつやくを命ぜらる。
初め麹町こうじまち八丁目の鳥羽とば藩主稲垣対馬守長和ながかずの邸内にあったのが、中ごろ築地海軍操練所内に移るに及んで、始めて攻玉塾と称し、次でしば神明町しんめいちょう商船黌しょうせんこうと、しば新銭座しんせんざの陸地測量習練所とに分離し
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
それから近いもの/\と段々に上げて、仕舞しまい戸塚とつかと云う老医と私と二人になり、新橋の川岸について、戸塚は麻布に帰り私は新銭座しんせんざに帰らねばならぬ。
福翁自伝:02 福翁自伝 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
そこで、諭吉ゆきちは、しば新銭座しんせんざ有馬ありまというとのさまの土地とちって、じゅくをたてたのでした。
上野の戦争新銭座しんせんざの塾は幸に兵火のめに焼けもせず、教場もどうやらこうやら整理したが、世間は中々やかましい。
福翁自伝:02 福翁自伝 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
生徒せいとたちはじゅくのやねのうえにあがって、しきりに上野うえののほうをみているようすですが、諭吉ゆきちは、慶応義塾けいおうぎじゅくをこの新銭座しんせんざにうつしたことが、いかによかったかと、ひそかにかんがえるのでした。
れば我党の士が旧幕府の時代、すなわち彼の鉄砲洲てっぽうずの塾より新銭座しんせんざの塾に又今の三田に移りし後に至るまでも、勉強辛苦は誠に辛苦なりしかども、こうべめぐらして世上をうかが
今を去ること三十年、我党の士が府下鉄砲洲てっぽうずの奥平藩邸を去て芝新銭座しんせんざに移り、匆々そうそう一小塾舎を経営して洋学に従事したるその時は、王政維新の戦争最中、天下た文を語る者なし。
一、社中に入らんとする者は、芝新銭座しんせんざ、慶応義塾へ来り、当番の塾長にはかるべし。
慶応義塾新議 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)