元文げんぶん)” の例文
元文げんぶん元年の八月、内藤新宿の橋本屋で心中があった。男は鈴木主水という浪人者で、相手は白糸という遊女だった。書置があった。
鈴木主水 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
元文げんぶん三年十一月二十三日の事である。大阪で、船乘業ふなのりげふ桂屋太郎兵衞かつらやたろべゑと云ふものを、木津川口きづがはぐちで三日間さらした上、斬罪に處すると、高札かうさつに書いて立てられた。
最後の一句 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)
元禄において江戸演劇を創生し享保元文げんぶん年代に至つて河東節かとうぶしいだしたる都会特殊の芸術的感情は、宝暦明和の円熟期を限界となし安永天明を過ぎて寛政に及ぶや
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
一つの扉にはあおいもんがあって、中に「贈正一位大相国公尊儀」と刻し、もう一つの方は梅鉢うめばちの紋で、中央に「帰真 松誉貞玉信女霊位」とり、その右に「元文げんぶん二年年」
吉野葛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
このあいだに年があけて享保二十一年となり、四月には年号を「元文げんぶん」と改元された。
十八条乙 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
五百は鼎斎を師とした外に、近衛予楽院このえよらくいん橘千蔭たちばなのちかげとの筆跡を臨模りんもしたことがあるそうである。予楽院家煕いえひろ元文げんぶん元年にこうじた。五百の生れる前八十年である。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
元文げんぶんに入り西川祐信にしかわすけのぶ出づるに及び絵本は再び流行せり。)鳥居清倍と同時代に二世清信きよのぶあり。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
元文げんぶん以来の御改鋳ごかいちゅうでいずれ金の品位が高くなると見越したもんだから、田舎を廻って天正一分判金てんしょういちぶはんきんや足利時代の蛭藻金ひるもきん、甲州山下一分判金などを買い集め、月並みの金調べの眼が届かないように
元文げんぶん三年十一月二十三日の事である。大阪おおさかで、船乗り業桂屋太郎兵衛かつらやたろべえというものを、木津川口きづがわぐちで三日間さらした上、斬罪ざんざいに処すると、高札こうさつに書いて立てられた。
最後の一句 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
宮古路みやこじの浄瑠璃は享保きょうほ元文げんぶんの世にあつては君子これを聴いて桑間濮上そうかんぼくじょうの音となしたりといへども、大正の通人はあごでて古雅きくすべしとなす。けだし時世変遷の然らしむるところなり。
桑中喜語 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
五世弥五右衛門は鉄砲十挺頭まで勤めて、元文げんぶん四年に病死した。六世弥忠太は番方ばんかたを勤め、宝暦ほうれき六年に致仕ちしした。七世九郎次は番方を勤め、安永五年に致仕した。
興津弥五右衛門の遺書 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
ここに元文げんぶん享保きょうほうの頃より浮絵ととなへ来りし一種の遠景図あり。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
その一には「性如院宗是日体信士、庚申こうしん元文げんぶん五年閏七月十七日」と、向って右のかたわらってある。抽斎の高祖父輔之ほしである。中央に「得寿院量遠日妙信士、天保八酉年十月廿六日」
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)