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任那
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みまな
ふりがな文庫
“
任那
(
みまな
)” の例文
日本書紀では、
崇神
(
すじん
)
天皇の御代の末、朝貢の使が
穴門
(
あなと
)
(今の長門)に来つたが、天皇崩御後なので、
垂仁
(
すゐにん
)
天皇が父天皇の御名を取つて、
任那
(
みまな
)
の国号を賜うたとある。
二千六百年史抄
(新字旧仮名)
/
菊池寛
(著)
第二十一代の天皇
雄略
(
ゆうりゃく
)
の時代には、
吉備田狭
(
きびのたさ
)
が反抗した。そのはじめに、天皇は、田狭を
任那
(
みまな
)
国司として差しむけ、そのあいだに田狭の妻を手にいれて、自分の妻にした。
天皇:誰が日本民族の主人であるか
(新字新仮名)
/
蜷川新
(著)
その
後
(
ご
)
、
南朝鮮
(
みなみちようせん
)
には
三韓
(
さんかん
)
といふ
小
(
ちひ
)
さい
國
(
くに
)
が
分立
(
ぶんりつ
)
しまして、その
内
(
うち
)
辰韓
(
しんかん
)
といふのが、
新羅
(
しらぎ
)
の
國
(
くに
)
になり、
弁韓
(
べんかん
)
は
日本
(
につぽん
)
の
植民地
(
しよくみんち
)
の
任那
(
みまな
)
になり、また
馬韓
(
ばかん
)
といふのが
百濟
(
くだら
)
になつたのであります。
博物館
(旧字旧仮名)
/
浜田青陵
(著)
狭手彦の軍を
卒
(
ひき
)
ひて、
任那
(
みまな
)
を鎮め、また
高麗
(
こま
)
を
伐
(
う
)
ちしことは
書
(
ふみ
)
に見ゆ。
松浦あがた
(新字旧仮名)
/
蒲原有明
(著)
『新撰姓氏録』巻二十、山城国諸藩の内に
任那
(
みまな
)
から帰化したという
多々良公
(
たたらのきみ
)
氏というのは、欽明天皇の
御宇
(
ぎょう
)
に来朝して「金多多利金平居等」を献じたゆえに、これを
誉
(
ほ
)
めて多々良公の姓を賜った。
地名の研究
(新字新仮名)
/
柳田国男
(著)
▼ もっと見る
欽明天皇の御世に
亡
(
ほろ
)
んだ
任那
(
みまな
)
日本府を復興せんとし、屡々
新羅
(
しらぎ
)
を御征討になつたし、又推古天皇の十五年
小野妹子
(
をののいもこ
)
を隋に遣はされて対等の国際的関係を結ばれ、
尋
(
つ
)
いで
高向玄理
(
たかむくのくろまろ
)
二千六百年史抄
(新字旧仮名)
/
菊池寛
(著)
中
(
なか
)
にも
日本
(
につぽん
)
の
植民地
(
しよくみんち
)
だつた
任那
(
みまな
)
や、
新羅
(
しらぎ
)
の
古墳
(
こふん
)
ではことにさうでありまして、どうしても
南朝鮮
(
みなみちようせん
)
にゐた
人間
(
にんげん
)
は、
日本
(
につぽん
)
の
九州邊
(
きゆうしゆうへん
)
の
人間
(
にんげん
)
と、
民族
(
みんぞく
)
の
上
(
うへ
)
から
見
(
み
)
ても
大
(
たい
)
した
變
(
かは
)
りはないように
思
(
おも
)
はれます。
博物館
(旧字旧仮名)
/
浜田青陵
(著)
高麗
(
こま
)
、
新羅
(
しらぎ
)
、
百済
(
くだら
)
、
任那
(
みまな
)
など互に攻略して、其処も安住の地でないので、彼等の中には、交通のやうやく開けたのに乗じ、山紫水明にして、気候温和なるわが国に移住帰化したものが多かつた。
二千六百年史抄
(新字旧仮名)
/
菊池寛
(著)
“任那”の解説
任那(みまな/にんな、임나、?-562年)は、古代に存在した朝鮮半島南部の地域を指す歴史地理的地名。主として『日本書紀』に代表される日本の史料において用いられる他、広開土王碑文等に用例がある。一般的に伽耶と同一、または重複する地域を指す用語として用いられる。
(出典:Wikipedia)
任
常用漢字
小5
部首:⼈
6画
那
常用漢字
中学
部首:⾢
7画
“任”で始まる語句
任
任侠
任務
任意
任地
任原
任運
任有亭
任他
任所