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みかわぶし
ふりがな文庫
“
三河武士
(
みかわぶし
)” の例文
取ってかえしに、奥からでてきたのは、
菊池家
(
きくちけ
)
の家来とみえて、いかさまがんじょうな
三河武士
(
みかわぶし
)
、
横柄
(
おうへい
)
に頭の上から見くだして
神州天馬侠
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
独
(
ひと
)
り
三河武士
(
みかわぶし
)
の末流として徳川
累世
(
るいせい
)
の
恩義
(
おんぎ
)
に対し
相済
(
あいす
)
まざるのみならず、
苟
(
いやしく
)
も一個の士人たる
徳義
(
とくぎ
)
操行
(
そうこう
)
において天下後世に
申訳
(
もうしわけ
)
あるべからず。
瘠我慢の説:04 瘠我慢の説に対する評論について
(新字新仮名)
/
石河幹明
(著)
三の強藩に敵するの勇気なく、勝敗をも
試
(
こころ
)
みずして
降参
(
こうさん
)
したるものなれば、
三河武士
(
みかわぶし
)
の精神に
背
(
そむ
)
くのみならず、我日本国民に
固有
(
こゆう
)
する
瘠我慢
(
やせがまん
)
の大主義を
破
(
やぶ
)
り
瘠我慢の説:02 瘠我慢の説
(新字新仮名)
/
福沢諭吉
(著)
すなわちその
思想
(
しそう
)
は純然たる
古流
(
こりゅう
)
にして、
三河武士
(
みかわぶし
)
一片の
精神
(
せいしん
)
、ただ徳川
累世
(
るいせい
)
の
恩義
(
おんぎ
)
に
報
(
むく
)
ゆるの外
他志
(
たし
)
あることなし。
瘠我慢の説:04 瘠我慢の説に対する評論について
(新字新仮名)
/
石河幹明
(著)
菊池半助
(
きくちはんすけ
)
の書面が、
家康
(
いえやす
)
の
本城
(
ほんじょう
)
浜松へつくと同じ日にいくさになれた
三河武士
(
みかわぶし
)
の用意もはやく、
旗指物
(
はたさしもの
)
をおしならべて、東海道を北へさして出陣した三千の
軍兵
(
ぐんぴょう
)
。
神州天馬侠
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
▼ もっと見る
偶
(
たまた
)
ま
以
(
もっ
)
て一旧臣の
為
(
た
)
めに富貴を得せしむるの
方便
(
ほうべん
)
となりたる
姿
(
すがた
)
にては、たといその
富貴
(
ふうき
)
は
自
(
みず
)
から求めずして天外より
授
(
さず
)
けられたるにもせよ、
三河武士
(
みかわぶし
)
の末流たる徳川一類の身として考うれば
瘠我慢の説:02 瘠我慢の説
(新字新仮名)
/
福沢諭吉
(著)
「そうか、いくら伊那丸でも、三千からの
三河武士
(
みかわぶし
)
にとりかこまれては、一たまりもあるまい」
神州天馬侠
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
すなわち明治政府において外国の
金
(
かね
)
を借り、またその人を
雇
(
やと
)
うて鉄道海軍の事を
計画
(
けいかく
)
したると
毫
(
ごう
)
も
異
(
こと
)
なるところなし。小栗は幕末に生れたりといえども、その
精神
(
せいしん
)
気魄
(
きはく
)
純然たる当年の
三河武士
(
みかわぶし
)
なり。
瘠我慢の説:04 瘠我慢の説に対する評論について
(新字新仮名)
/
石河幹明
(著)
すなわち
我輩
(
わがはい
)
の
所望
(
しょもう
)
なれども、今その
然
(
しか
)
らずして
恰
(
あたか
)
も国家の功臣を
以
(
もっ
)
て
傲然
(
ごうぜん
)
自
(
みず
)
から
居
(
お
)
るがごとき、必ずしも
窮屈
(
きゅうくつ
)
なる
三河武士
(
みかわぶし
)
の筆法を以て
弾劾
(
だんがい
)
するを
須
(
ま
)
たず、世界
立国
(
りっこく
)
の
常情
(
じょうじょう
)
に
訴
(
うった
)
えて
愧
(
はず
)
るなきを得ず。
瘠我慢の説:02 瘠我慢の説
(新字新仮名)
/
福沢諭吉
(著)
“三河武士”の解説
三河武士(みかわぶし)は、徳川家康に仕えて、江戸幕府成立に貢献した三河国出身の譜代の家臣の総称。三河衆(みかわしゅう)ともいう。酒井忠次や本多忠勝ら家康の主な家臣は三河武士で構成されていた。一般的に精強で家康への忠誠心が強いとされ、鳥居元忠らがその典型とされる。
(出典:Wikipedia)
三
常用漢字
小1
部首:⼀
3画
河
常用漢字
小5
部首:⽔
8画
武
常用漢字
小5
部首:⽌
8画
士
常用漢字
小5
部首:⼠
3画
“三河”で始まる語句
三河
三河島
三河屋
三河勢
三河国
三河守
三河万歳
三河路
三河町
三河後風土記