こも)” の例文
深い霧のこもつた中で立往生して了ふ。道が分らなくなる。谷へ落つこちるかも知れぬやうな危い処で、危い事には気附かずに狼狽する。
皮肉らしい調子なぞは、不思議なほどこもっていなかった。それだけまたお蓮は何と云っていか、挨拶あいさつのしように困るのだった。
奇怪な再会 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
いいや、小石姫が殺されまして以来毎晩この石が泣くようになったと申します。姫の怨念おんねんが石にこもったのでございます。
ぐうたら道中記 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
その頃からみぞれが降り出して烈風がまじり、ちょうど昨日と同じ天候になったが、法水は人々を遠ざけて独り鐘楼にこもったきりいつまでも出てこなかった。
聖アレキセイ寺院の惨劇 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
うるみを帯びて威のある眼、眼尻に優しい情がこもつて、口の結びは少しく顔の締りをゆるめて居るけれど、──若し此人に立派な洋服を着せたら、と考へて、私は不意に
菊池君 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
「誰だ!」低く、しかも力のこもった声で叫んで、半身を起し、四辺あたりをみると、白衣の怪老人が片手にメスを握り、そっと、陳君の眠っているベッドに近づいて来たのだ。
怪奇人造島 (新字新仮名) / 寺島柾史(著)
おおきな虚無の痙攣けいれんは停止したまま空間に残っていた。崩壊した物質の堆積たいせきの下や、割れたコンクリートのくぼみには死の異臭がこもっていた。真昼は底ぬけに明るくて悲しかった。
鎮魂歌 (新字新仮名) / 原民喜(著)
しめっぽい匂いのするほろの上へ、ぱらぱらと雨の注ぐ音がする。疑いもなく私の隣りには女が一人乗って居る。お白粉しろいの薫りと暖かい体温が、幌の中へ蒸すようにこもっていた。
秘密 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
それに、昼間から夜に移ろうとする夕靄、こもって段々高まって来る雑音、人間の引潮時の間に、この街上を眺めているのは面白かった。私はライオンの傍の電柱の下で、永い間群集を見た。
粗末な花束 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
露地のように細いみちが軒下を縦横に通じ、歩く度に、ばたんばたんとドブ板が撥返はねかえって、すえたような、一種異様な臭気が、何かしら、胸に沁みいるようにあたりにこもっていたからであった。
腐った蜉蝣 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
濛々と湯気のこもった柘榴口ざくろぐちから、勘弁勘次が中っ腹に我鳴り返した。
眼尻に優しい情がこもつて、口の結びは少しく顏の締りを弛めて居るけれど、若し此人に立派な洋服を着せたら、と考へて、私は不意に、河野廣中の寫眞を何處かで見た事を思出した。
菊池君 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
私は折々書見の眼をあげて、この古ぼけた仏画をふり返ると、必ずきもしない線香がどこかでにおっているような心もちがした。それほど座敷の中には寺らしい閑寂の気がこもっていた。
疑惑 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
と芸者は突如いきなり卓造君の膝をつねった。色気抜きだから念力がこもっている。
村の成功者 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
千鶴子の語気に希望がこもっていたので、はる子は黙って頷いた。恐らく日に幾人となく、そういう女や男に会う×は、十人が九人迄にそうやって、出世祝いの護符のような文句を与えているのだろう。
沈丁花 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
そして又ワーンとこもった若い男女の張切った躍動する肢体が、視界一杯に飛込んで来て、ここしばらく忘れられたようなサナトリウムの生活を送っていた彼は、一瞬、その強烈な雰囲気に酔うたのか
鱗粉 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
陰にこもった含み声。弥吉は力なく地面じべたへ坐った。
杜子春の声には今までにない晴れ晴れした調子がこもつてゐました。
杜子春 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
杜子春の声には今までにない晴れ晴れした調子がこもっていました。
杜子春 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
兄の声には意外なくらい、感情のこもった調子があった。
お律と子等と (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)