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しょうへいこう
ふりがな文庫
“
昌平黌
(
しょうへいこう
)” の例文
父の死によって御届方という役名だけは継いでいたが、実際には無役だったので、かれは江戸へのぼって
昌平黌
(
しょうへいこう
)
へ入学することを願い出た。
新潮記
(新字新仮名)
/
山本周五郎
(著)
昌平黌
(
しょうへいこう
)
と、道場のほかにも、武士が稽古に通うところがあるのを初めて知って、彼は、少し世間を考え直した。
松のや露八
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
これより先艮斎は天保十三年に故郷に帰って、
二本松
(
にほんまつ
)
にある藩学の教授になったが、弘化元年に再び江戸に来て、嘉永二年以来
昌平黌
(
しょうへいこう
)
の教授になっていた。
渋江抽斎
(新字新仮名)
/
森鴎外
(著)
昌平黌
(
しょうへいこう
)
に学び挙げられてその舎長となり、後に大坂に赴き
松本奎堂
(
まつもとけいどう
)
、松林飯山らと双松岡塾を開いた。
下谷叢話
(新字新仮名)
/
永井荷風
(著)
徳川幕府の士人の大学、
昌平黌
(
しょうへいこう
)
聖堂の森は、まだ面影を残し、高等師範学校の
塀
(
へい
)
は見えるが、かかったばかりのお茶の水橋は、細く、すっと、
好
(
い
)
い
恰好
(
かっこう
)
だ。錦子も立って眺めた。
田沢稲船
(新字新仮名)
/
長谷川時雨
(著)
▼ もっと見る
ただ
一人
(
ひとり
)
、木曾福島の
武居拙蔵
(
たけいせつぞう
)
、その人は漢学者としての
古賀侗庵
(
こがどうあん
)
に
就
(
つ
)
き、
塩谷宕陰
(
しおのやとういん
)
、
松崎慊堂
(
まつざきこうどう
)
にも知られ、
安井息軒
(
やすいそっけん
)
とも交わりがあって、しばらく
御茶
(
おちゃ
)
の
水
(
みず
)
の
昌平黌
(
しょうへいこう
)
に学んだが
夜明け前:01 第一部上
(新字新仮名)
/
島崎藤村
(著)
そのころ
昌平黌
(
しょうへいこう
)
の教官で平松なにがしという学者がいた。陽明を教えたので学問所を追われたということを聞き、菊千代が彼を招いて老子の講義を聴いた。
菊千代抄
(新字新仮名)
/
山本周五郎
(著)
慊堂は
昌平黌
(
しょうへいこう
)
の教授で弘化元年に歿した事は識者の知る所。その略伝の如きはここに言わない。
向嶋
(新字新仮名)
/
永井荷風
(著)
その後仲平は二十六で江戸に出て、
古賀侗庵
(
こがとうあん
)
の門下に籍をおいて、
昌平黌
(
しょうへいこう
)
に入った。
安井夫人
(新字新仮名)
/
森鴎外
(著)
青山主馬のほかは、
昌平黌
(
しょうへいこう
)
からの知りあいであるが、かれらとも、しばしば、そのことを語りあった。
山彦乙女
(新字新仮名)
/
山本周五郎
(著)
寛斎は久しく
昌平黌
(
しょうへいこう
)
の教官と林家の塾頭を兼ねていたが、天明の末
白河楽翁
(
しらかわらくおう
)
公の学制を改革するに際して、職を辞し
浅草
(
あさくさ
)
の某処に移った後、やがて
神田
(
かんだ
)
お
玉ヶ池
(
たまがいけ
)
に
江湖
(
こうこ
)
詩社を開いた。
下谷叢話
(新字新仮名)
/
永井荷風
(著)
その
隆準
(
りゅうじゅん
)
なるを以ての故に、抽斎は
天狗
(
てんぐ
)
と呼んでいた。佐藤一斎、
古賀侗庵
(
こがとうあん
)
の門人で、学殖
儕輩
(
せいはい
)
を
超
(
こ
)
え、かつて
昌平黌
(
しょうへいこう
)
の舎長となったこともある。当時弘前
吏胥
(
りしょ
)
中の識者として聞えていた。
渋江抽斎
(新字新仮名)
/
森鴎外
(著)
平三郎のほうが、いくらか勝ち気だったかもしれない。藩校での成績もそろって群を抜き、十二歳のときから五年、いっしょに江戸へ行って、いっしょに
昌平黌
(
しょうへいこう
)
でまなんだ。
蘭
(新字新仮名)
/
山本周五郎
(著)
弘化三年丙午正月十五日、
本郷丸山
(
ほんごうまるやま
)
から起った火災は江戸大火中の大火に数えられているものである。
湯島
(
ゆしま
)
の聖堂は幸にして類焼を免れたが
昌平黌
(
しょうへいこう
)
の校舎と寄宿寮とは共に
灰燼
(
かいじん
)
となった。
下谷叢話
(新字新仮名)
/
永井荷風
(著)
栄次郎は初め抽斎に学んでいたが、
尋
(
つ
)
いで
昌平黌
(
しょうへいこう
)
に通うことになった。安の夫になった宗右衛門は、同じ学校の諸生仲間で、しかもこの
二人
(
ふたり
)
だけが
許多
(
あまた
)
の士人の間に
介
(
はさ
)
まっていた商家の子であった。
渋江抽斎
(新字新仮名)
/
森鴎外
(著)
「お上には
昌平黌
(
しょうへいこう
)
にて教えをお受け遊ばした間柄、必ず御尽力くださろうかと存じます」
入婿十万両
(新字新仮名)
/
山本周五郎
(著)
「よせやい」と房二郎が答えた、「
昌平黌
(
しょうへいこう
)
じゃあ
松室寧斎
(
まつむろねいさい
)
のまな弟子だったんだぜ」
へちまの木
(新字新仮名)
/
山本周五郎
(著)
儒学は江戸の
昌平黌
(
しょうへいこう
)
で古賀
同庵
(
どうあん
)
につき、蘭学は讃岐で伊藤宗介に手ほどきをうけた。かれは父と兄とから、新しい時代に太橋の家を生かす人間、という望みをかけられていたのである。
新潮記
(新字新仮名)
/
山本周五郎
(著)
殿が
昌平黌
(
しょうへいこう
)
の仰高門日講に出られた、すると講壇にのぼったのが半之助どのだった、お側に付いていた者が気づいて申上げ、講義のあとで係りの者に尋ねると、それに相違ないことがわかった
初蕾
(新字新仮名)
/
山本周五郎
(著)
「暇があったら
昌平黌
(
しょうへいこう
)
へやって貰うんだね」
はたし状
(新字新仮名)
/
山本周五郎
(著)
“昌平黌(昌平坂学問所)”の解説
昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)は、1790年(寛政2年)、神田湯島に設立された江戸幕府直轄の教学機関・施設。正式の名称は「学問所」であり「昌平黌」(しょうへいこう)とも称される。
(出典:Wikipedia)
昌
漢検準1級
部首:⽇
8画
平
常用漢字
小3
部首:⼲
5画
黌
漢検1級
部首:⿈
25画
“昌平”で始まる語句
昌平橋
昌平
昌平坂
昌平丸
昌平校
昌平橋際
昌平橋御門