家慶いえよし)” の例文
七月の二十六日には、江戸からの御隠使ごおんしが十二代将軍徳川家慶いえよし薨去こうきょを伝えた。道中奉行どうちゅうぶぎょうから、普請鳴り物類一切停止の触れも出た。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
将軍家慶いえよしは、ようやくその政をみずからするを得たり。彼が家慶における関係は、あたかもチルゴーが路易ルイ十六世におけるが如き関係なりし。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
抽斎はその数世すせいそんで、文化ぶんか中に生れ、安政あんせい中に歿ぼっした。その徳川家慶いえよしに謁したのは嘉永かえい中の事である。墓誌銘は友人海保漁村かいほぎょそんえらんだ。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
八月四日前将軍家慶いえよしの葬儀が芝増上寺において行われた。枕山らが年々催す中秋の観月はこれがために今年は廃せられた。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
たまたま我が嘉永かえい六年、即ち西紀一八五三年米国使節ペルリ来って、時の将軍〔徳川〕家慶いえよしの耳元に一大砲声を放った。ここに長い間の昏睡状態は破れた。
今宵も将軍家慶いえよしは、愛妾のお光の方と共にお成りとあって、お光の方に仕えている源兵衛の娘由利も、その行列に加わったのであるが、日ごろの勤め振りにめでて
嘉永六年七月には徳川家慶いえよし薨去こうきょしたので、七月二十二日から五十日間の鳴物なりもの停止ちょうじを命ぜられた。
……十二代将軍家慶いえよし公の御世子よつぎ幼名ようみょう政之助さま……いまの右大将家定公は、本寿院さまのお腹で文政七年四月十四日に江戸城本丸にお生れになったが、それから四半刻ばかりおいて
顎十郎捕物帳:01 捨公方 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
これと同時に抽斎は式日しきじつ登城とじょうすることになり、次いで嘉永かえい二年に将軍家慶いえよしに謁見して、いわゆる目見めみえ以上の身分になった。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
七月二十二日に将軍家慶いえよしこうじた。年六十一である。その第三子家定いえさだが将軍の職を襲いだ。年三十二である。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
天保八年丁酉ていゆう 米穀騰貴。二月、大塩平八郎乱を大坂に起す。四月、家慶いえよし征夷大将軍に拝す〔慎徳公〕。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
彼多病にして懦質だしつもとより将軍の器にあらず、故に前将軍家慶いえよしあらかじめその不肖を知り、水戸烈公の子慶喜よしのぶをして一橋家を継がしめ、以て他日将軍たるの地を為さんとせり。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
西丸にいた大納言家慶いえよし有栖川職仁親王ありすがわよしひとしんのう女楽宮じょらくみやとの婚儀などがあったので、頂戴物ちょうだいものをする人数にんずが例年よりも多かったが、宮重の隠居所の婆あさんに銀十枚を下さったのだけは
じいさんばあさん (新字新仮名) / 森鴎外(著)
抽斎の将軍家慶いえよしに謁見したのは、世の異数となす所であった。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)