釣殿つりどの)” の例文
暮れかかるころに「皇麞こうじょう」という楽の吹奏が波を渡ってきて、人々の船は歓楽陶酔の中に岸へ着き、設けられた釣殿つりどのの休息所へはいった。
源氏物語:24 胡蝶 (新字新仮名) / 紫式部(著)
それから、京極の宿所の釣殿つりどのや、鹿ヶ谷の山荘の泉石せんせきのたたずまいなどが、髣髴ほうふつとして思い出される。都会生活に対するあこがれが心をただらせる。
俊寛 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
「小舎人、小舎人。……おん内庭の御門をひらき、釣殿つりどののおん前へ、遠国の客人が、お館へ献上の馬を、曳いて見せいとの仰せであるぞ。——その、用意な急ぎ候え」
平の将門 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
伊豆守仲綱も、激戦のすえ体に多くの傷手を負うと平等院の釣殿つりどので自害した。その首を打った下河辺藤三郎清親は、敵の手に入らぬようにと大床の下へ投げ込んでかくした。
移し植えたあやめはとうに花をちぢらせ、釣殿つりどの近くうぐいすの声が老いて行っても、二人の男は通いつづめた。父の基経もとつねは永い間、ほとんど耐えかねていたように、る日、橘を呼んでいった。
姫たちばな (新字新仮名) / 室生犀星(著)
夏の頃水無瀬殿の釣殿つりどのにいでさせ給ひて、ひ水めして水飯すいはんやうのものなど若き上達部かんだちめ殿上人てんじょうびとどもにたまはさせておほみきまゐるついでにもあはれいにしへの紫式部こそはいみじくありけれ
蘆刈 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
炎暑の日に源氏は東の釣殿つりどのへ出て涼んでいた。子息の中将が侍しているほかに、親しい殿上役人も数人席にいた。
源氏物語:26 常夏 (新字新仮名) / 紫式部(著)
布を投げたような曲線が、釣殿つりどの床下ゆかしたをとおり抜け、せんかんたる小川の末は、東の対ノ屋の庭さきから、さらに木立こだちをぬい、竹林ちくりんの根を洗って、邸外へ落ちてゆく。
「たいへんな風力でございます。北東から来るのでございますから、こちらはいくぶんよろしいわけでございます。馬場殿と南の釣殿つりどのなどは危険に思われます」
源氏物語:28 野分 (新字新仮名) / 紫式部(著)
いちど、西廂にしびさしから釣殿つりどのまでを雷鳴かみなりのように暴れ廻っていた高時は、やがてまた、とって返して
私本太平記:02 婆娑羅帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
今日の楽人三十人は白襲しろがさねであった。南東の釣殿つりどのへ続いた廊のへやを奏楽室にして、山の南のほうから舞い人が前庭へ現われて来る間は「仙遊霞せんゆうか」という楽が奏されていた。
源氏物語:35 若菜(下) (新字新仮名) / 紫式部(著)
通されたのは一亭の釣殿つりどので、かたのごとく酒肴しゅこうは出たが、道誉好みの茶をいるでもなく立花りっか自慢や田楽舞でんがくまいの馳走でもないらしい。いつまでもそこはあるじの道誉とただ二人だけの秋の静夜だった。
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
今日退出する僧の一人に必ず言っておく用で釣殿つりどののほうへ行ってみたが、もう僧たちは退散したあとで、だれもいなかったから、池の見えるほうへ行ってしばらく休息したあとで
源氏物語:54 蜻蛉 (新字新仮名) / 紫式部(著)
と言って、御簾みすの中に隠れて見ていた。式場の席が足りないために、あとから来て帰って行こうとする大学生のあるのを聞いて、源氏はその人々を別に釣殿つりどののほうでもてなした。贈り物もした。
源氏物語:21 乙女 (新字新仮名) / 紫式部(著)
東の釣殿つりどのへはこちらの若い女房が集められてあった。竜頭鷁首りゅうとうげきしゅの船はすっかり唐風に装われてあって、梶取かじとり、棹取さおとりの童侍わらわざむらいは髪を耳の上でみずらに結わせて、これも支那しな風の小童に仕立ててあった。
源氏物語:24 胡蝶 (新字新仮名) / 紫式部(著)