遼陽りょうよう)” の例文
清三は新聞や雑誌で、得た知識で、第一軍第二軍が近いうちに連絡して遼陽りょうようのクロパトキン将軍の本営に迫る話をして聞かした。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
武承休ぶしょうきゅう遼陽りょうようの人であった。交際が好きでともに交際をしている者は皆知名の士であった。ある夜、夢に人が来ていった。
田七郎 (新字新仮名) / 蒲 松齢(著)
さすが遼陽りょうようだの奉天だのと云う名前は覚えているが、それがどの辺にあって、どっちが近いのだかいっさい知らなかった。
満韓ところどころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
明朝ここに於て、遼陽りょうようの一部将祖承訓そしょうくんに兵三千を率いしめて義州に南下し、朝鮮の部将史儒しじゅ以下の二千の兵と合して、七月十六日平壌を攻撃させた。
碧蹄館の戦 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
日露戦争の際、私は東京日々とうきょうにちにち新聞社から通信員として戦地へ派遣された。三十七年の九月、遼陽りょうようより北一はん大紙房だいしぼうといふ村に宿とまつて、滞留約半月はんつき
雨夜の怪談 (新字旧仮名) / 岡本綺堂(著)
話は遠く日露戦争の昔にさかのぼりますが、河内園長が満州の野に出征しゅっせいして軍曹ぐんそうとなり、一分隊の兵を率いて例の沙河さか前線ぜんせん遼陽りょうようの戦いに奮戦ふんせんしたときのことです。
爬虫館事件 (新字新仮名) / 海野十三(著)
此戦役の前半、即ち第二軍に於ける兵站衛生作業、南山役なんざんのえき得利寺役とくりじのえき大石橋だいせつきょう蓋平がいへい小戦)、遼陽りょうよう戦なれども、此分を記すとひし軍医先年病歿、それきりになり居候。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
無論さ。大杯の酒に大塊の肉があれば、能事のうじおわるね。これからまた遼陽りょうようへ帰って、会社のお役人を
鼠坂 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
そのとしの二月には露国に対し宣戦の詔勅しょうちょくが降り、私の仙台に来たころには遼陽りょうようもろく陥落かんらくし、ついで旅順りょじゅん総攻撃が開始せられ、気早な人たちはもう、旅順陥落ちかしと叫び
惜別 (新字新仮名) / 太宰治(著)
江川三昧さんまい東道。五月二十七日、遼陽りょうように至る。
五百句 (新字旧仮名) / 高浜虚子(著)
堀部君は商会の用向きで、遼陽りょうようの支店を出発して、まず撫順ぶじゅんの炭鉱へ行って、それから汽車で蘇家屯へ引っ返して、蘇家屯かち更に渾河こんがの方面にむかった。
雪女 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
「病気でつらいだろうが、おりてくれ。急いで行かんけりゃならんのだから。遼陽りょうようが始まったでナ」
一兵卒 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
七郎の子はとう漂泊ひょうはくしていって、姓をとうと変えていたが、兵卒から身を起し、軍功によって同知将軍になって遼陽りょうように帰って来た。武はもう八十余であった。そこで武はその父の墓を教えてやった。
田七郎 (新字新仮名) / 蒲 松齢(著)
わたしは東京日日新聞の従軍記者として満洲の戦地にあって、遼陽りょうよう陥落の後、半月ほどは南門外の迎陽子という村落の民家に止宿していたが、そのあいだの事である。
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
遼陽りょうよう方面の砲声も今まで盛んに聞こえていたが、いつか全くとだえてしまった。
一兵卒 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
現在は××会社の支店長になって上海シャンハイに勤めていますが、このお話——明治三十七年の九月、日露戦争の最中で、遼陽りょうよう陥落の公報が出てから一週間ほど過ぎた後のことです。
火薬庫 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
新聞にはそのころ大石橋だいせっきょうの戦闘詳報が載っていた。遼陽りょうよう! 遼陽! という文字が至るところに見えた。ある日、母親は急性の胃におかされて、裁縫を休んで寝ていた。物を食うとすぐもどした。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
高を雇い入れてから半月ほどの後に、遼陽りょうよう攻撃戦が始まったので、私たちは自分の身に着けられるだけの荷物を身に着けた。残る荷物はふた包みにして、高が天秤てんびん棒で肩にかついだ。
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
「つい、この間だ。遼陽りょうようの落ちた日の翌日かなんかだったよ」
『田舎教師』について (新字新仮名) / 田山花袋(著)