茅町かやちょう)” の例文
若い時分には気の変りやすいもので、茅町かやちょうへ出て片側町かたかわまちまでかゝると、むこうから提灯をけて来たのは羽生屋の娘お久と云う別嬪べっぴん
真景累ヶ淵 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
茅町かやちょうから上野へ出て、須田町行きの電車に乗る。ほこりがして、まるで夕焼みたいな空。何だか生きている事がめんどうくさくなる。
新版 放浪記 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
ちょうど、この晩のこの時刻に、長者町の道庵先生が茅町かやちょうの方面から、フラフラとして第六天の方へ向いて歩いて来ました。
大菩薩峠:19 小名路の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
「圓太郎。乗合馬車が通るらしいよ。私は一昨日煉瓦地で見た。お前さんはまたなにかの参考になるだろうから、サア早く茅町かやちょうの通りへ行ってごらん」
円太郎馬車 (新字新仮名) / 正岡容(著)
きみ悪そうにおたかが去っていったことも、曲り角を通り越したことも知らず、茅町かやちょうまで来てようやく我に返り、そこでなお暫く棒立ちになっていた。
柳橋物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
蔵前くらまえの八幡町、森田町、片町かたまち須賀町すがちょう(その頃は天王寺ともいった)、茅町かやちょう、代地、左衛門河岸さえもんがし(左衛門河岸の右を石切いしきり河岸という。名人是真ぜしん翁の住居があった)
そのうち茅町かやちょう七軒町しちけんちょうとの間から、無縁坂の方へ行く筋に、小さい橋の掛っているところに来た。
(新字新仮名) / 森鴎外(著)
藍染川と、忍川の、晴れて逢っても浮名の流れる、茅町かやちょうあたりの借屋に帰って、吉原がえりの外套を、今しがた脱いだところ。姓氏は矢野弦光げんこうで、対手あいてとは四つ五つ長者である。
薄紅梅 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
「幸い、いけはた茅町かやちょう江島屋良助えじまやりょうすけせがれ良太郎りょうたろうが、フトした折にお関を見染めた」
浅草茅町かやちょうの日高屋なぞは最も旧家として知られていました。
半七捕物帳:50 正雪の絵馬 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
一つは本郷追分ほんごうおいわけから谷中やなかまでひと舐めさ、こっちはおめえ小石川から出たやつが上野へぬけてよ、北風になったもんで湯島から筋違橋すじかいばし、向う柳原やなぎわら、浅草は瓦町かわらちょうから茅町かやちょう
柳橋物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
角を曲れば、茅町かやちょう町家まちやと池に沿うた屋敷とが背中合せになった横町で、その頃は両側に荷車や何かが置いてあった。四辻に立っている巡査の姿は、もう角から見えていた。
(新字新仮名) / 森鴎外(著)
一日おいて又六日に出火致しましたのが神田旅籠町から佐久間町を残らず焼払い遂に浅草茅町かやちょう二丁目まで延焼し、見附を越して両国へ飛火とびひ致し、両国一面火になって、馬喰町ばくろちょうを焼き
塩原多助一代記 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
これが売り物に出たのを師匠が買い取ったのであるが、その頃の売り買いが四百円であったとはいかに家屋の値段が安かったかということが分ります。地面は浅草茅町かやちょうの大隅という人のものであった。
「お角の居どころは知れました。浅草の茅町かやちょう一丁目、第六天の門前に小さい駄菓子屋があります。おそよという婆さんと、お花という十三四の孫娘の二人暮らしで、その二階の三畳にお角はくすぶっているのです」
半七捕物帳:58 菊人形の昔 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
そしてその日午後、品川のほうにある親類の家から旅に立つ筈で、茅町かやちょうの土地を去っていった。
柳橋物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
引続いて種々いろ/\物入ものいりのございましたので、身代も余程衰えて来た処へ、其の年の十一月二十九日の籾倉もみぐらの脇から出火で福井町から茅町かやちょう二丁目を焼き払った時に土蔵を落して丸焼に成り
政談月の鏡 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
鐵「へえ、下谷したや茅町かやちょう二丁目で」
菊模様皿山奇談 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)